【 温い水で溺死 】
銀時×土方
家の中に、銀髪の男以外の気配を感じない。 それを不思議に思い、大抵一緒にいる他の奴らはどうしたんだと問うと、男は常時眠そうな眼を向けてアッサリと答えた。 「多串くんが来るって云うから外に遊びに行かせた。日が暮れても帰ってくんなって」 「最低な保護者だな」 半眼で吐き棄てると、何が可笑しいのか男は笑う。 そういうお前は何だかんだで面倒見が良いのだろうとでも云いたげな、知ったかぶりの笑みだ。 並べて置いたコップに麦茶を注ぐと、先に放り込まれていた氷がピシピシと冷たく罅割れた。その音を愉しむようにゆっくりと注いでいく男が、覇気のない声で云う。 「偶にはイイだろ。新八の姉ちゃん家だってあんだしよ。厭だったか?」 言葉の最後の問いと共に、男の視線も意味ありげに此方に向けられる。正視する気になれずそれから眼を逸らし、ソファに腰を下ろした。 「……別に。てめェの勝手だ」 何だか奥歯に物が挟まったような、気に食わない云い方だと自分で思う。歯噛みしたい気分は、しかし直ぐにどうでも良くなって霧散した。 そうさせる空気が、此処には充ちている。 此方に背を向けてゴソゴソと何かしている、綿飴みたいな銀髪の男を盗み見た。 この男の傍は意外なほど落ち着くのだと知ったのは最近のこと。 溶融 お世辞にも座り心地が良いとは思えない、硬いソファに体重の総てを預けて土方はぼんやりとそこら辺を見ていた。 広さも内装もフツウの部屋だ。フローリングの床。テレビ、箪笥に藤製の椅子と書類机。土方が腰掛けているのと同じデザインのソファが低い机を挟んで向かいにも置いてある。どれも然して珍しいものではないから直ぐに興味を失った。 着流しの着物に不似合いなスリッパを履いた足をぷらん、と一度振って床に下ろす。ぺた、と足が床に着く感覚がスリッパ越しでいつもと違った。 次に背凭れに頭を乗せて天井を仰ぐ。笑う狐に似たシミを見付けた。 やらなければならないことも、することもない時間というのは土方には酷く新鮮だった。そういった時間は無駄だと感じる性質なので、普段なら何かすることはないか探すところなのだが、いるのが他人の家ではどうしようもない。 氷が半分ほど溶けて濃度の薄まった麦茶のコップを掴む。硝子と、その表面に浮かんだ水滴が冷たくて気持ちいい。渇いていたわけでもない喉を潤し、机にコップを戻すといよいよ手持ち無沙汰であるのを実感してしまった。 暇だ、と云うには微妙にニュアンスが違うように思う、何もない時間に、思考まで止まりそうだ。 微温湯で充たした浴槽に躰を伸ばして浸かっているような、気怠い空気。それを不快と思わないのが、何より厄介だった。 土方は袂を探って煙草を取り出す。が、それを銜えて火を点けるより早く伸びてきた手に奪い取られた。 「ダーメ。コレににおい移ったら不味くなんだろ」 何やら色んなものを載せたお盆を置いた銀髪の男が、口を尖らせて取り上げた煙草を左右に振る。そしてそれはそのまま男の袂の中に消えてしまった。 コレ、とはお盆に載った四角いスポンジ生地や、ぶつ切りのフルーツや生クリームのことを指しているのだろう。 そんな簡単ににおいなど移るものか、と土方は思うが、云い合う気になれなくて黙っておく。机を挟んで正面に立ったまま、上体を屈めて不機嫌な土方の顔を覗き込んでくる男を上目に睨んだ。しかし今更そんなものに効果がある筈もなく、銀時は平然と受け流して口許を独特の笑みに歪める。 「多串くん、ウチにいる間は禁煙ね。口寂しいんだったら飴かキスあげるからさ」 「死神のキスを受ける気なら俺が喜んで紅い花で祝福してやるぞ」 完全に据わった眼の土方が殺気を漂わせながら刀の柄に手をかけるのを認めて、銀時は肩を竦め後ろのソファに倒れ込んだ。ドサ、と硬いソファが重みを受け止める音がして、浅く腰掛ける体勢になった銀時はすぐさま気を取り直したようにお盆の上のものに意識を向ける。 糖分がなきゃ発狂すると公言して憚らないこの男は、自分で菓子を作るのも上手らしい。手作りと思われるふわふわのスポンジに手際よくクリームを塗ってフルーツを並べている。 することがないからか、何と無くそれに興味を惹かれて土方は銀時の手元を見詰める。 「何作ってんだ?」 「フルーツロールケーキ」 簡潔に放たれた名詞の形状を思い出し、土方は眼を瞬かせた。 ということは、クリームとフルーツを乗せたこの平たいスポンジを巻き寿司のように丸めるつもりなのか。こんな柔らかくて崩れやすそうなものを。 「…器用だな」 「あれ、今頃分かったの? 今まで何回も俺の巧みな手とテクでキモチヨクなったじゃ――」 「知ってるか? 俺も結構器用でな。素手で頚椎が折れる」 「……ゴメンナサイ」 土方の手がガッチリと銀時の首を掴んで、少しずつ力を込めると珍しく真面目な顔で銀時は謝った。降参するように顔の高さまで上げられた男の両手に生クリームが付着しているのが眼に入って、気が抜けた土方は首を絞めていた手を引き戻す。 何処か狂う調子を自覚しながらも、それを正す術も知らないから何もできずに唯ソファに躰を預けた。 自分は此処で何をしているのだろう。いや、何もしていないのか。この男の近くにいて、漫然と過ぎていく時間を数えるだけで、腐ったように意識も躰も停滞している。 この男の傍が意外に落ち着いてしまうのがいけないんだ。 自分は安穏を求めていい人種などではないのに。 このままでは俺は駄目になる。 ゆるゆると心地好い温度の水に浸かり、ゆったりと溺れていく感覚。 安定するとは、そういうことだ。 熱くも冷たくもない、刺激がなく、漫然と、変化を忘れて本能が鈍っていく。 此処にあるものは、何もかもが温かった。 温い部屋。 温い空気。 眠気を催すほど、ゆったりと水が充ちて、自分と外との境界が薄れていく。 牙も爪も放棄して、俺は駄目になる。 それは忌むべきことだ。 生も死も遠ざかって、感覚が鈍っていくのは危険なことだ。 しかし、理性では分かっていても拒絶することができない。それもこれも纏わりついて心地好い、緩慢な終焉のようなこの雰囲気のせいだ。 意識を覚醒させようと煙草を求めて袂を探った手にそれらしい物は当たらなかった。代わりに別のものを掴んでから遅れて、没収されたのだと思い出す。 奇麗にロールケーキを作り上げた銀時がその動作に気付いて顔を上げた。 「口寂しい?」 「まさか」 ニヤリ、と人の悪い笑みに極低温の声を返して、土方は手の中のものをクシャリと握り潰した。手のひらでグシャグシャになったそれは、以前銀時に半ば無理矢理渡された名刺だ。最初に此処へ来る時にはこれに記された住所を頼りにしたのだが、今ではもう無用の代物である。 街中で見かけても無視したり、一瞬でも早く別れようとしたりすると銀時はしつこいほど食い下がってくるクセに、傍にいる時には案外放りっぱなしだった。土方に気を使う様子もなく――使われても気持ち悪いだけだが――、甘味を食べたりジグソーパズルをしていたり、自分の好きなことをしている。そして気紛れに話し掛けてくる以外にはこれといって何もなかった。少なくとも有益なものは、何も。 そんなふうにただ傍に居るだけなのが、何故だか妙に落ち着く。 この男は不思議なテンポだった。それは心音に似た、人から安堵を引き出す雰囲気だ。 「なぁ、」 「んぁ、何? 悪いけどコレはやれねーぞ」 完成したロールケーキをやたら分厚く切り分けて齧り付いている銀時の不明瞭な言葉に、違う、と即座に云い返す。 ああ、まただ。 また調子が狂っている感じがする。口には表せない齟齬が、ひたひたと足元を濡らしていく。 体温との境目を掻き消す水が嵩を増して、波飛沫ひとつ立てず総てを受け入れて許して抜け出せなくなる。 静かに静かに沈みゆき、心地好さに溺れて。 羊水に包まれた胎児が、安堵の眠りに就くように。 とろとろと微睡んで、俺は駄目になる。 「――銀時」 はじめての言葉を紡ぐと、銀髪の男は落ちかけの瞼を見開いて動きを止めた。くちびるの端に生クリームが付いてるのが間抜けだ。 それを教えてやる為に土方は自分の口端を指でつついて、ぺろりと舌で舐めた。 「付いてんぞ」 「え、あー、うん。けどどーでもイイや」 乱暴に己の頭を掻き乱してソファから立ち上がった銀時が机を避けて近付いてくる。 ソファの背に手を突いて覆い被さるように距離を狭めてくる、少し真剣みを帯びた顔を土方は鋭い目付きで見上げた。 「あのさぁ、それってワザと?」 「何が」 頬を擽る温い手。温い体温。 嫌いじゃないなんてどうかしてる。 後ろ髪を撫でられ、男の良いように上向く角度を調整される。 「………ン」 温いキス。 温い舌。 温い唾液。 温いクリームの甘ったるい味。 温い男。 ああ、駄目になる。 俺は。この男の傍に居ると。 もう手遅れなんだ。 04.08.10 |