【 丸まった背中 】
土方→近藤




 俺はアンタの倖せを願えない。






   変わることを知らない





「トシィ、何でお妙さんは振り向いてくれねぇんだろうなぁ。俺ってそんなに魅力ねぇ?」

 まあケツ毛は相当アレだけどよォ、などと愚痴る近藤を土方は横目に見た。
 この男は土方の部屋に押し掛けてきてからずっとこの調子で酒を飲みつつ喋り続けている。それも今回が初めてのことではないので、土方は話の大半を聞き流して相槌すら打っていなかった。そうして暫くやり過ごしていると、流石に気付いてきたらしい近藤が見詰めていた酒の水面から顔を上げる。

「トシ、聞いてる?」
「知るかよ」

 近藤の問いに答える代わりに、吐き棄てるように呟く。何が、とそれが最初の問いに対する返答だと理解できなかった近藤の視線から眼を逸らして、同じ言葉をもう一度口にした。
 近藤は魅力的な人間だ。少なくとも土方はそう思う。
 やさしくて信頼できて、情に厚いから人望もあるし、懐が広くて仲間を疑うということをしない。莫迦なのではなく純朴なのだ。女の趣味は分からないので容姿に関してはどうとも云えないが、そもそも外見で人柄を決めるわけじゃないだろう。
 確かに、一直線すぎて少々いき過ぎな面もあるが。しつこいのも確かだが。
 それでも、そんな部分を差し引いたとしても、近藤に惚れ込んでいる自分が、何故あの女が振り向かないのかなど分かる筈がないのだ。
 吐き出しそうな溜息を呷ったアルコールで腹の底へ押し戻し、喉が焼け付くような感覚に土方は一瞬眉をひそめる。悪酔いしそうな安酒だ。
 ちらと視線を流せば、畳に直に置かれた一升瓶の中身は半分ほどに減っていた。近藤がそれを持ってきた時はまだ封も切っていなかった筈だ。ペースが早過ぎる、と思う。

「近藤さん、呑み過ぎだ」
「何だ心配性だな、トシは。これくらいで潰れたりしねぇって。ほら、お魚さんだって空飛んでるだろ?」
「遅かったか。もう酔ってやがる」
「何云ってんだ。酔ってねーぞ」
「そういうのを何て云うか知ってるか? 酔っ払いの常套句ってんだよ」

 冷静に言葉を返すと、近藤は子どもみたいに不服げな表情を浮かべる。そして空になったコップを床に置いて、ボソリと呟いた。

「トシが冷たい」
「イイ大人がいじけんな!」

 丸めた背中を土方に向けて横になる近藤に怒鳴りつける。しかし近藤はその楽な体勢で落ち着いてしまったらしい。起き上がらずにそのまま、土方に表情を見せずに声だけが届く。

「好きなんだよ、お妙さん。どうしたらお妙さんも俺を好きになってくれんのかなァ」

 少し弱気な声音の、此処にはいない女へと向けられた言葉に、土方は眉間に皺を寄せた。
 近藤の口からその女の名が出てくる度に、そこに恋情の響きを感じる度に、土方は自分の足元がグラグラと揺らぐ心地がする。悪酔いしているのは、自分のほうかもしれない。
 望みなんかないんだ、諦めろとは云えなかった。
 自分には、云えない。叶わぬ感情をいつまでも抱き続けている、自分には。
 諦めろよ、アンタには俺がいるだろ。そう云ってしまいたい。けれど実際、声にできる筈もない。
 振り向かれないことのつらさは痛いほど知っていた。しつこさが取り得の近藤でも、告白して玉砕することに何の痛痒も感じずにいるわけではない。この男はいつだって本気で真剣なのだから。
 土方は、近藤が誰かに恋をする度に打ちのめされてきた。けれど諦められなかった。叶わなくてもいい、想っていられるだけでいいなどと云えるほどお気楽な性格はしちゃいない。それでも離れることもできなければ、割り切ることもできなかったのだ。
 そこまで、老成してはいない。
 そこまで、この想いは褪せていない。

「―――近藤さん」

 語尾が掠れる。臆病な己の声は、虫の音に紛れて自分の耳にも届かなかった。
 近藤が床に置きっ放しにしたコップを机に乗せ、自分のも飲み干してから横に並べる。一升瓶は栓をして近藤の手の届かない場所に移動させた。
 珍しく気落ちしているのか、いつも陽気で賑やかな近藤はさっきから一声も発さなくなっていた。丸まった背中が、常より小さく見える気がする。そんな錯覚にどうしようもなく苛立って、土方は奥歯を噛み締めた。握り締めた拳が、爪が肌に食い込んで痛い。
 そんな姿を、俺に見せないでくれ。
 この男のことなら、何でも見ていたいけど、誰かに恋焦がれる顔など、それに振り回され消沈する後姿など、見たくない。
 そう思うのだけれど、土方は近藤の背中から眼が離せなかった。
 着衣の上からでもその躰が逞しい筋肉に覆われているのが分かる。そしてそこに大小無数の疵痕が残っているのを、土方は知っていた。それだけの死地を、いつだって共に切り抜けてきた。
 手に入れられたのは近藤に背を預けてもらえる地位と信頼だ。それで充分だと思う。これ以上に倖せなことなどあろう筈もないのに。
 近藤に惚れられた女どもが羨ましくないと云えば、そこには幾分か嘘が含まれるだろう。しかし、ならば女に生まれたかったのかと云われればそれも違った。近藤の片腕という立場は、女では得られまい。
 結局はないもの強請りなのだ。
 自分からは触れることもできないのに、欲求ばかりが膨らんでいく。
 低い卓に背を預け、立てた片膝に頬を乗せて、尚も動かない近藤を見詰めた。
 障子の外、夜闇に響く夏の虫の鳴き声が室内の沈黙を強調する。

「…俺ってどっか駄目? 何が駄目? ていうかもしかして全部駄目?」
「……知るかよ」

 独り言のような問いにも土方は言葉を返すが、駄目なのはそのちょっと異常な押しの強さとしつこさじゃないのかとは、口にはしなかった。
 折り曲げて立てた膝を、引き寄せるように腕で囲う。眼を伏せると近藤の姿が視界から消えた。
 灯りは点けてあるのだが、この部屋には少しばかり闇が沈殿している気がする。空気が重いと感じるのは、自分の心境のせいだろうか。
 男二人で酒飲んで落ち込んでいるなんて、莫迦みたいだ。
 眼を閉じて自嘲する。瞼を押し上げると、丸まって寝転がる近藤の背中が映る。デカイ図体に不似合いな体勢で、落ち込んでいるんだか不貞寝しているんだか分からない。

「…………」

 畳に手と膝をついて、ゆっくりと土方は近藤ににじり寄った。
 近藤は寝ているわけではないのだろうが、背を向けたまま微動だにしない。その首の付け根辺りに土方はそろりと手を伸ばした。太くがっしりした首から繋がる背筋のラインを、指で触れるか触れないかの微妙な力加減で撫で下ろす。

「うおっ?! な、何だどうしたトシ!?」

 ビクン、と駆け抜けた悪寒に似た感覚に背を痙攣させた近藤が飛び起きた。
 そして眼を白黒させる近藤を土方は見上げる。別に、と答えると此方を向いて胡坐をかいた近藤が首を傾げた。

「お前、最近総悟に似てきたか?」
「この上なく不愉快なこと云うな」
「いや、だって、なぁ…。だったらちゃんとワケを云えよ、な?」

 真っ直ぐに眼を覗き込まれ、土方は息を呑む。咄嗟に顔を逸らしそうになるが、腕を掴まれてその行為が不自然なのだと気付き、耐える。
 不思議そうにする近藤に覚られてはいけない。掴まれた箇所が火傷しそうに熱くて、顔が熱くて。そんなの、気付かれるわけにはいかなくて必死に隠す。隠すには、結局俯くしかなかった。

「トシ?」

 こんな近くで喋るな。
 そんな心配そうな声を出すな。
 鈍感なアンタは有り難いけど残酷だ。
 泣く寸前みたいに呼吸が浅くなっていくのが情けなかった。詰まる喉を宥めて、声を絞り出す。

「………立てよ、背筋伸ばして。いつまでも大将が、背中丸めて寝てんなよ」

 それが酷く身勝手な言葉だとは分かっていた。
 自分にも、誰にも彼のプライベートまで縛る権利などない。
 単に自分が見ていたくないだけだ。誰かのことを想っているのを、厭だと感じないほど心は広くない。
 自分の痛みなしに、近藤の倖せは考えられなかった。切り離せない自分が厭だった。近藤の倖せは、近藤のものなのに。唯それだけを純粋に望みたいのに。
 アンタさえ良ければそれでイイんだ。そう思える日はまだ、遠い。一生無理なのではないかと、感じるほどに。
 俯いた土方の頭を大きく無骨な手が触れた。あやすように、不器用な仕草で髪を撫でる。

「トシ、悪かったな」

 近藤のやさしい声に土方は首を左右に打ち振った。
 あんな自分勝手な言葉に、謝らなくていいのに。そんなんだから甘えてしまうんだ。
 深呼吸をして自分にけじめをつけ、土方は顔を上げる。泣きそうな表情も、悲痛な色も、そこにはなかった。

「此処でウジウジしてたって何も変わんねェよ。近藤さんは、好きなんだろ?」
「そりゃ当然だ!」

 土方は口許に笑みを刻んだ。
 このはっきりと断言する近藤の潔さが好きだ。どうしたってそれが変わることはない。

「なら、諦めたら…終わりだろ」

 今日もまた殴られるか蹴られるかしたのだろう、腫れている近藤の頬にそっと触れる。
 ああ、俺はとんだ嘘吐きだ。
 心から応援できないクセに、自分のエゴの為にアンタを励ます。
 ペチ、と景気付けに頬を軽くはたいてやると近藤は痛がりながらも擽ったそうに笑った。

「そうだよな。ありがとよ、トシ。俺は諦めんよ。なんてったって愛してんだからな! 待っててくれ、お妙さァァん!」

 いつもの調子を取り戻して、明後日の方向に近藤は叫ぶ。
 土方は元気になって笑顔を見せる近藤を見ていると、嬉しいのに何処か苦しい。

「なぁ、トシ。どうしたらお妙さんは喜んでくれると思うよ」
「………知るかよ」

 もう何度目になるか分からない言葉を、土方は胸の痛みと共に吐き出した。





04.08.17




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