【 猫のきまぐれ 】
沖田×土方
貴方はいつだって無自覚で、安息を求めないから。 哀れみのぬくもり ナァ、と獣の鳴く声が聞こえて閉ざしていた瞼を押し上げる。 開け放した障子の向こうに見える、陽光の降り注ぐ中庭が眩しくて土方は眼を瞬かせた。光で真白に塗り潰された視界が徐々に順応してきて、色彩を取り戻す。 殆ど出払っているのかいつもより静かで、平和な屯所の風景だった。 久々の非番で、私室で寛いでいるうちにうたた寝してしまったらしいとぼんやりする頭で認識し、自分を起こした声を探す。庭先に蹲っている黒い塊から、また鳴き声。 疲れでも残っているのか、欠伸をひとつ零して眠気を引き摺ったまま、縁側までのそりと這って行くと、目線の先で塊が形を変えた。 ピン、と三角の耳がふたつ立ち上がり、金色に光る真ん丸な双眸が土方を捉える。鼻先から尻尾の先まで真っ黒な仔猫は、ナァ、と甘えた声で鳴いた。 土方が縁側から腕を垂らして、誘き寄せるように揺り動かすと足音も立てず近付いてくる。鼻をひくつかせて指先の匂いを嗅いでから、躰を擦り付けてくる黒猫に知らず口許が綻んだ。 恐る恐る抱き上げてみるとその軽さに驚き、縁側に降ろしてやる。サラサラの毛並を撫でればゴロゴロと喉を鳴らして眼を細めた。 屯所の料理番がいつも残飯を与えている猫が、確かこんな感じだと云ってなかっただろうかと思い起こす。片手で抱えられる、小さな黒猫。しかしそれは餌を貰うだけで決して人には懐いてこないと聞いていたので、少し疑問が残った。 違う猫か、はたまた気紛れに擦り寄ってきたのか。確かめるだけ意味のないことを思い、どうでもいいことだと気付く。 「お前、名前とかあんのか?」 それもどうでもいいことだ。また、猫が人の言葉に答えを返すわけもない。 胡坐をかいた土方の足の上で猫はころりと背を丸めて寝転んだ。それからうっとりと眼を閉じる様は心地好いと云っているようで、顎の下を撫でてやりながら土方は自分が穏やかな気持ちになるのを感じる。さっきまでたっぷりと日の光を浴びていた黒い毛皮はあたたかかった。 ぬくもりにでも餓えていたのだろうかと、らしくもない予想を巡らせる。 ぷにぷにした肉球に触れてみたくなったけど、前足を掴もうとすると嫌がられたのでそれは諦めた。 午睡で寝乱れた着物を、足の間で丸まっている猫をビックリさせないようにそっと引っ張って胸元だけ正す。 日向はまだ夏の暑さを残していたが、中庭を通って吹き抜ける風は少しだけ秋の色を帯びていて、日陰の縁側は過ごし易くなってきている。 蝉の声も聞かれなくなり、静かに緩くぬるく流れていく空気が頬を撫でた。余りの長閑さに欠伸が洩れる。 その次の瞬間、背筋にポタリと冷水を落とされたような殺気。 考えるより先に躰が後ろに飛び退いた。 畳に手と膝を突いて、転びかけた体勢を正す。咄嗟に胸に抱えた猫が土方の着物に爪を立てた。 逆戻りした私室から見る縁側に、ゆらりと立つ人の影があった。その腕の先から伸びる抜き身の刀は、一瞬前まで土方が座っていた場所に振り下ろされている。 燦々と中庭を照らす太陽の逆光になって、縁側の人物の面は土方には暗くてよく見えない。見えないが、誰何の必要はなかった。 何の前触れもなく斬りかかってくる奴など、一人しか心当たりがない。 「……チッ」 「って何だその舌打ちはッ! 事ある毎に俺を亡き者にしようとすんじゃねェ総悟!!」 土方が語気を荒げると人影は此方を向く。色素の薄い頭髪が揺れて、影を縁取るように輪郭だけが光を弾いた。 幼い無表情の青年は一滴の血も吸えなかった刀でつまらなさそうに肩を叩いて口を開く。 「厭だなァ、そんなこたァ企んじゃいませんぜ」 「だったら何でこんなことしやがる!?」 飄々と嘯いて刀を鞘に戻す沖田に土方が反言すれば、まるで予想外だったというように真ん丸にした眼できょとんとされた。それからわざとらしく顎に手を添えて、視線を泳がせながらうーんと唸ってみせる。 その仕草は斬ってしまいたいと思う程度には小憎らしいものだったが、手の中にはまだ黒猫が収まっていたから実行には移さない。 ややあって、これまたわざとらしく沖田は頓智でも思い付いたようにポンと手を打った。 「本能」 「遺伝子に殺人衝動組み込まれてる奴が何処の世界にいるってんだ!」 「ああ、そんじゃアレだ。手が滑った」 「ンな明らかに取って付けた云い訳は要らん!」 「まぁまぁ、そんなカッカしねェで気を静めてくだせェ」 「その元凶が云うな!」 着物に引っ掛かった鈎針状の爪を外そうとジタバタする猫を土方は助けてやって、一向に口が減らない沖田にも辟易としながら怒鳴って返す。 そこで使い切った酸素を取り込む為に深く息を吸った土方の手のひらから、ぬくもりが零れ落ちた。 「……ぁ」 思わず声を上げた土方の腕からするりと抜け出した黒猫は別れの挨拶のように一声鳴き、沖田の横を通り過ぎて庭に駆けていった。 軽やかな身のこなしで茂みに消えていった獣をつい目で追いかける。が、それで戻ってくるわけもなく諦めて、腰を降ろした土方の目の前が俄かにフッと翳った。 猫の代わりに音もなく接近してきた沖田が、視界を塞ぐように土方の正面に立っている。目が合うと沖田はしゃがんで、感情の読めない眸を意味ありげに細めるので、土方はしかめっ面になった。 また刀を向けてくるのかと身構えていた土方は、沖田が次に起こした奇行に更に顔をしかめて、不機嫌な声を吐く。 「退け」 「何でですかィ」 「そりゃこっちの科白だ! 何でてめェに膝枕してやんなきゃなんねーんだよ」 予測の範囲外のことだったにしても、それを易々と許してしまったことに歯軋りしたくなった。 此処は自分の居場所だと主張でもするかのように、土方の太腿に頭を乗せて寝転がった沖田の額を思いっきり平手で叩く。小気味よい音が鳴ったそこを仰向けになった沖田は手で押さえて、不服げに口を尖らせた。 「猫に貸すような安い膝なんだったら俺にも貸してくだせェよ」 「莫迦云うな」 「じゃあ俺ァ猫になりますぜ」 「はぁ?」 「にゃ〜ん」 「おいコラ擦り寄るな。気色悪ィ。本気で悪ふざけも大概にしろ斬るぞ」 いつの間にか細い腕をガッチリと腰に回されて逃げることも出来ずに土方は、無表情のまま平坦で真似ようという気のまるで感じられない声を出す沖田を引き剥がそうともがく。沖田が腰に佩いている刀を分捕ってやろうかかなり本気で思案していると、幼い顔が下から眼を覗き込んでくるように上を向いた。 「俺の眼を見て真剣だって分かりやせんか?」 「巫山戯てるな」 「あ、酷ェや」 即座に切り返した土方は机に置いてあった煙草に手を伸ばし、取り出した一本を銜えて火を灯す。いっそストレスごと出て行ってくれたらと願う紫煙を、沖田は厭うように手でパタパタ扇いで追い払った。 口では酷い、と云いながらもけろりとした顔の沖田が憎らしい。 沖田がいないほうを向いて、ふーっと肺の底まで充たした煙を細く吐き出した。 「俺は思ったままを云っただけだよ」 「その正直さが俺を疵付けましたぜィ。詫びとして暫く枕になってくだせェ」 「断る」 だいたい、男の膝枕など固いだけで居心地よくも嬉しくもないだろう。 それに自分は非番だがこの男は仕事中の筈だ。沖田の隊服のスカーフを引っ張って、それで首が絞まろうがお構い無しに上半身を起こさせた。 「何だィ、俺なりに元気付けてやろうと思ったってのにつれないお人だ」 「元気付ける?」 渋々といった様子で起き上がった沖田の言葉を繰り返して、土方は眉間を寄せる。そこに常にはない匂いを沖田は嗅ぎ取っていた。 だからいつもと同じ表情をしても、いつもと違う雰囲気が漂っている。本人は気付いちゃいないのだろうが、眼の下に疲労の色が濃かった。 ―――ああほら、そんなやつれた顔して。そんなんだから普段懐かねェ猫が寄ってくんでさァ。 沖田は心中で呟く。 こんな腑抜けでいられたら斬ろうという気も起きやしない。 紫煙を吐く土方のくちびるは深い快楽を逃がすように気怠げだった。 土方の両肩を掴んで覆い被さって、押し倒すのにも彼は抵抗しきれない。緩めに締めた帯で細さの分からない腰に跨って、伸び上がるように上体を倒して土方の頬を舐めた。 嫌がる土方が振り上げた腕は殴られる前に捕まえる。瞼は閉ざさずに睨みつける眸にも常ほどの凶悪さはなかった。 鬼の副長の名が聞いて呆れる。 今の彼なら泣かせることさえ出来るのではないか。 舌でなぞった眦までのラインは涙の痕跡のように濡れて光った。 「猫にまで同情されちゃお仕舞ェでさァ」 耳元で密やかに囁く。 こうまで弱くなる前に、アンタも、俺も、誰も、何で気付かなかったんだ。 アンタを癒すものに嫉妬する。癒されるアンタを嫉む。 ―――ナァ 猫の鳴き声はただ、俺には嘲笑うものにしか聞こえなかった。 04.09.08 |