【 缶ビール1本 】
山崎→土方
やまない風が俺を苛む。 風穴の向こう 眼を開けても見えるものは何ひとつなかった。 月光も射さない闇に室内は支配されていて、利かない視界の代わりに不明瞭な寝言や盛大な鼾ばかりが耳につく。 薄くて床の硬さを殆ど緩和できていない布団に躰を横たえている山崎がいるのは、隊士が寝起きをする大部屋の、正確に云えば襖で半分に区切った片側のスペースだった。襖の向こうでテレビを見たり酒を呑んだりゲームに興じたりしているらしい陽気な空気と賑やかな笑い声が、少しだけ此方にも伝わってくる。 夜はまだ然程更けていないが、単純に眠かったり、明日が早番だったり、ちょっと体調不良で早めに休んだりする者の為に、此方側はもう眠りの世界なのだ。 眼が慣れてきても尚闇は深く、寝ている人間は黒い塊にしか見えない。 山崎は居心地悪げにもどり、と身じろいだ。仰向けになって、おどろおどろしい般若みたいだと云われているシミも今は暗くて分からない天井を向く。 自分も普段は夜更かし組に混じっていることが多いのだけど、今日は早く寝てしまいたかった。 そうして現実逃避だ。 なのにこんなときばかり意識はとてもハッキリしていて、眠気が訪れる気配はない。 眼を閉じる。開く。何も変わらない。 あーもー!と叫びだしたいような気持ちで山崎は勢いよく躰を起こした。 眠れない。 早く早く寝ようと布団に潜り込んだのに、これでは意味がないではないか。 眠れず寝返りばかり打っていたからグチャグチャになった髪をかきあげる。額に手を当て、俯くと吐く息は勝手に溜息になった。 前から薄々、そうなのだろうとは思っていた。 自分は副長が好きなのだろうと。 同性ということの躊躇いも、邪な想いを抱く後ろめたさも越えたところで、その感じだけが揺らぎもせずにあった。それは否定するにはあまりに大きく身の内を占めていて、無理に消し去れば何かが欠け落ちるような予感がするものだ。けれども、実感したのは今日のあの時がはじめてだった。 だからこんなにも惑う。 眼を瞑らなくてもすぐに、闇がスクリーンとなってあの光景が浮かんだ。 濃密な午後の陽射しに蟠った影の奥で見た顔は、闇に黒で陰影をつけたような精緻さだった。閉じられた薄い瞼で凶暴なほど強い光を湛えた瞳が隠されていたから、余計にそう感じたのかもしれない。 薄暗がりに沈む白皙のかんばせには、夜の月のような艶がある。 それは人を惹き付ける魔性だ。 眼が逸らせなくなり、何も考えられず、引き寄せられるように、口吻けたいと思った。 その衝動を何とか、寸でのところで思いとどまったのは一片の理性に縋り付いて手繰り寄せることが出来たからだ。はっと幻から醒めるように、後は後ろも振り返れずに走って逃げた。 眠る土方の何処か色めいた容貌と、重ねようとしたその薄いくちびる、部屋のじとりと黴臭い空気を思い出す度、折角の好機を勿体ないと思う気持ちと、とんでもないことをしでかさなくて良かったという安堵が渦を巻いて混ざり合った。 けれども何より、気付かれなくて良かったと思う。 もしあんなことをしようとしたなんてバレたら、殺される前に死んでしまう。これは、裏切りなのだから、あの人に見付かってしまったら自分は生きていけない。 ズキリ、と胸が痛んだ。 この肋骨の中は空っぽだ。あの人に心臓は奪われた。そうして喰い尽くされた心の跡にあの人を求める空洞があって、そこを冷たく痛く切ない風が吹き抜ける。 風は土方に触れようとした瞬間から激しく、やまなくなった。 ふるり、と頭を振って山崎は胸を押さえる。痛みを和らげる心臓の鼓動を感じて、躰の中がスッカラカンになったような感覚を埋めた。 縁側に通じる障子を細く開け、寝ている者を起こさないように静かに滑り出る。よれた寝衣がだらしなく肩からずり落ちそうなのを直して、裸足で夜風に冷えた板張りの通路を進んで厨房に向かう。 眠れないなら、羊を数えたりするより酒の手を借りるのがいちばん手っ取り早いし確実だ。 火も落とされ、灯りひとつ点いていない中を勝手知ったる動きで山崎は冷蔵庫まで辿り着き、ガコリ、と開けた。一般家庭にあるものより少し大きめのそれから溢れ出る照明が夜目に眩しくて眼を細める。 ビール缶やら酒瓶やら何やら、とにかく酒類しか入っていないそこを覗き込んで、『山』と太いマジックで胴体にでかでかと書かれた缶ビールをやっと見付けた。ついでに一度ぐるりと冷蔵庫の中を見回してから、仕方ないかという顔でその自分の缶ビールを取り出す。 何かツマミになるものも、と思ったのだが酒と違って肴は全員で共有になっているから、めぼしいものは残っていなかった。 真選組は男所帯なせいか、余りに量があるから食事の材料などと別にされた酒肴専用冷蔵庫の扉を閉じる。 隣には業務用の大きな冷蔵庫があった。こちらは明朝の隊士たちの腹を充たす為の食材が詰まっているのだろう。勝手に漁ったりしたらキツイお咎めを食らってしまう。 山崎は暗い厨房の中に視線を巡らした。 夜空には猫の爪ほどに細い三日月が引っ掛かっている。 小さく遠いそれをぼんやりと縁側に腰掛けて見上げ、山崎は缶ビールを呷った。その苦い味と喉に焼け付くアルコールの感覚までが何処か遠いもののようで、完全に惚けているということだけを明確に自覚して奇妙な感じだ。 自分と、土方との距離はこれくらいだろうか。地上と、遠く手の届かない衛星。衝突したら、その影響は計り知れなくて。それが理由じゃないんだけど決して近付くことはない。 後ろに両腕を突いて上体を斜めにし、切り裂くように鋭い月を見詰める。一心に。だから、ひたひたと静かに近付いてくる影に気付かなかった。 「お前、こんなトコで一人で呑んでて寂しくねェのかよ」 「っふ、副長…!?」 突然かけられた声にビクッと飛び上がって、山崎は危うく缶に手をぶつけて倒しそうになった。 低くてよく通る声の主は見なくても分かる。分かってしまうから、わたわたと取り乱して、山崎は泣きそうになった。 何てタイミングの悪い。 今日――山崎にはとても今日のこととは思えないのだが――、山崎が土方にキスしようとしたことを彼は知らないとはいえ、何もこんなときに目の前に現れなくてもイイだろうと恨みたくなる。 殴られるかな、と思ったがどうしても土方を直視できなくて顎を下げて眼を逸らす。 「ちょっと、一人でいたいときもあるんです」 「ふぅん? そりゃ邪魔して悪かったな」 明らかに気まずさの漂う空気を特に追及せず、土方はアッサリと云って山崎の後ろを通り過ぎようとする。 風呂上がりなのだろう、彼からはいつもの煙草のにおいがしない。山崎は躰ごと振り返って土方の横顔を振り仰ぐ。 「あ、あのっ、副長も飲みませんか?! いや、これ一本しかないんですけど」 どもった声で、思わず呼び止めてしまった。 それに驚いたのは寧ろ山崎のほうで、自分の口から零れ落ちた言葉が信じられないと眼を見開く。ぱくぱくと酸欠になったように口を開けたり閉じたりするけれど、それで一度発した声を吸い込んで、無かったことにできる筈もない。 怒りや苛立ちによってではなく、不思議そうに軽く眉根を寄せて、土方の視線はこちらを向いた。 「お前のだろ」 「いいですから、どうぞ! そうだ、おつまみもありますよ」 「何だ?」 「おはぎです」 「お前、それはツマミとは云わねぇだろ」 呆れているのか失笑しているのか、どちらともつかない風に土方は口許を歪める。 たまたま厨房の調理台の上にひとつだけ残ってたのを見付けて、多分余り物だろうと判断して勝手に貰ってきたのだが、これじゃやはり駄目だろうか。彼は甘いものがそれほど好きじゃないから、興味を引いたようには思えない。 けれど土方は、棄てられた仔犬のように眉尻を下げて上目遣いに見上げてくる山崎の横に並んで腰を下ろした。 そのことに山崎はまた吃驚して、それ以上に嬉しいのを隠して云い訳をするときのように口を尖らせる。 「だってめぼしいのは全部持ってかれちゃってたんですもん。あ、これも一個しかないんで半分コで良いですよね?」 山崎の問いに半分以上どうでもイイと思っているような返事をして、土方は一気飲みするように缶を傾けた。曝された白い喉がゴクリと上下する。全く遠慮のない飲みっぷりは、此方に文句を云わせる気がないことを示しているように思われた。もし云ったら、きっと拳固が飛んでくるのだろう。 一個のおはぎを半分に割って、片方を差し出す。すると微妙に間が空いたりするから、要らないと断られるかと思ったが、少し遅れて土方は受け取った。 それから大きく口を開けて齧り付くのを、山崎はこっそりと横目に窺いながら自分も一口食べる。合わさったくちびるの奥で、咀嚼する歯の動きが頬を通して分かった。 ものを食べる仕草は本能に近い動きだ。行儀を気にせず無造作に食っている土方は、それが特に際立っていた。 「…何だよ」 おはぎを食べ切った土方の双眸はやはり瞳孔が開き気味で、月光を反射しているように鋭い。 その眼と視線がかち合って、山崎は焦った。あまりに露骨に視線を向けていたから気付かれてしまったらしい。 「え、えーと…俺のも、食べます?」 「もう要らねーよ」 今度こそ断られて、ですよねーと山崎は曖昧に誤魔化し笑いを浮かべて庭先に目をやった。屯所の中庭は気休め程度にだけ手入れがされている。 指先についた餡子も舐めとった土方は、いつもと微妙に違う、何か気落ちしているような雰囲気を纏わせている山崎に眼を眇めた。気がそぞろというか、切羽詰まっているような印象さえ受ける。 ふと煙草を吸おうと袂に手を突っ込んだが、風呂に行くときに部屋に置いてきたことを思い出して苦々しくくちびるを噛んだ。我ながらこの喫煙量はニコチン中毒寸前だと思う。しかし手元に無ければどうにも落ち着かない。 その物足りなさを埋める為ということでもなかったが、立ち去る切っ掛けも見付からず、土方は普段ならまず突っ込んで聞かない問いを口にした。 「お前、何か悩みでもあんのか?」 「ふへぇえええ?!! えっ、あ、あの…いや、えーとその、」 そんな突飛なことを訊いたわけでもないのに、山崎は熊か怪物にでも遭遇したかのような驚きようで、その場から飛び退かなかったのが不思議なくらいだった。その次には動転しているからなのだろう、意味のない音ばかり並べ立てる山崎に土方は下から睨め付けるようにずいと顔を近づける。 「んだよ、ハッキリしろ」 「あ、」 あります。 あるけど、云えない。 貴方には。 貴方にだけは。 ―――云ってしまおうか。 駄目だ。 云えない。云えない。 云えるわけが、ないだろう。好きだなどと。決して口にしては、ならない。 この、貴方の信用に対する裏切りの感情を、口にした瞬間に待ち受けているのは破滅だけで。 そして、終わってしまう。 それが何かは分からないけれど。何かは、確実に。終わる。 どうして。 どうして、まだ何も始まっていないのに終わってしまうんだろう。 ザァ、と夜風が梢を鳴らして雨音に似た音色を奏でた。 空の胸に吹き込んで、情動を揺さ振った。 「副長にだけは云えません…!」 血を吐くような悲痛さを伴なった言葉は、耳鳴りのように夜に響いた。 風の音も虫の音も人の声もやんだような錯覚の後に、寄する波のように沈黙が充ちてくる。重苦しいその空気の居た堪れなさに山崎は続く言葉を考えられなかった。 もう後悔しはじめている。しかしそれは最早遅くて。 俯いた視界にグッと拳を握る土方の手が見えて、殴られるのだと予感した。そりゃそうだ。少なくとも本人を前に云う科白じゃなかった。怒らせてしまって当然だ。 そう思って覚悟していたのに、暴力は振るわれなかった。 「ああ、そうかよ」 気分を害した声音で吐き棄てて、土方はすくっと立ち上がる。そうして自室のほうへと足を向け、歩き出す前に肩越しに山崎を振り返った。その顔はいっそ見事な仏頂面で、心臓が竦みそうになる。 「邪魔して悪かったな」 「あ…」 なのに、土方の眸は凍った湖面のように静かで、何もかも総てを知っているような色だった。 最初と同じ言葉を残して、土方は今度こそ行ってしまう。そのいつでも真っ直ぐに伸びた背中を成す術もなく見送って、山崎は浅くなる呼吸で必死に酸素を吸い込んだ。 後から厭な汗がじわりと吹き出てきて、背筋を伝い落ちる。着物の膝のところで手をごしごしと拭っても、握り締めればすぐに汗ばんだ。 何でこんなことになってしまったのか。 犯しかけた過ちを忘れてしまいたいとすら願う気持ちで、酒精の力に頼って早く意識を落としてしまおうとしていただけなのに。 手を伸ばした缶ビールは、さっき一口飲まれただけとは思えないほど軽くなっていた。その残った僅かな中身を飲み干す。 しかし、そんなちょっとで酔える筈もなく、意識は酩酊してくれない。ビール缶は空っぽで、俺の感情はいっぱいいっぱいだった。今にも何か溢れ出るものがありそうで、苦しい。 山崎は空き缶を中庭に投げようと手を振りかぶったが、途中でやめた。ポイ棄ては良くない。その程度の常識もまだ、残っている。 こんなにも苦しくて、隙間風はビュービュー胸の洞に吹き込んで、なのにまだそんな下らないものを棄てられずにいる。世間体や形振りを気にしてしまう。 何でこうなってしまったんだろう。 もう取り返しがつかない。後戻りできるものじゃない。 人を好きになるのに理由なんかない。 本当に、そうだ。 わけが分からないままに感情と五感の総てがあの人に持っていかれる。 くらくら、眩暈。 顔を手のひらで覆う。 瞼の裏に彼を思い出す。 そんな眼で俺を見ないで。 ―――俺を見透かさないで。 04.10.26 |