【 嘲笑と微笑み 】
沖田×土方




 つい、と視線を動かした沖田は、其処に意識を総て持っていかれて立ち止まった。
 その急な停止に、後ろを歩いていた隊士が驚いて沖田の背中にぶつかる。

「すみません隊長!」
「いや…。あ、すまねぇが先行っててくれィ」

 小柄な背丈にもかかわらず、当たられてもよろけもせずに隊士を振り返って沖田はひらひらと手を振った。その言葉に不思議がりながらも従い、沖田を追い越して行った隊士の姿が見えなくなってから、さっきの位置へと視線を戻す。
 こんなとき、むやみに視力が良い己の眼を感謝するべきか疎むべきか迷う。いや、これはきっと視力の良し悪しの問題ではないのだろう。例えば自分が盲目だったとしても、あの人の気配を捕まえるに違いない。
 あの人――土方は、悪餓鬼みたいに相好を崩して、ただただ愉しそうに邪気なく笑っていた。彼の向かいには同じく笑っているらしい近藤の後姿が見える。何を話しているのかまでは遠くて聞こえないが、その和やかで打ち解けた空気だけは厭というほど沖田にも伝わってきた。
 沖田は人を斬る為に抜刀する瞬間のように息を潜める。胃の腑の底で何かが蠢く感覚。それを宥めすかして大人しくさせるのも楽じゃない。
 靴を履いたまま縁側に乗り上げて、彼らのところまで走っていってやろうかと思った。よく分からない衝動。唯、愉しそうだからその輪に加わりたいと思ってのことでないのは確かだ。
 どちらかというと、崩してやりたい。
 決して二人の存在が、雰囲気が嫌いなわけではないのだが、時折、稀に、そんな気持ちが湧き上がった。だから沖田は、自分を虫唾が走るほど嫌いになる瞬間がある。
 厭だなァ、と口内で呟くが、その対象がどれであるのかは判然としない。
 一頻り笑い終えても、土方は眦にだけ笑みを残していた。それはともすれば気付かないほど微かに、けれど見る者が見ればハッキリとした、微笑だ。
 存外に誤解されがちだが、土方は沖田などより余程よく笑う。
 攘夷志士を一掃する作戦を立てているときには口許に不敵な笑みを刷いているし、血の一滴も流す前から命乞いをはじめる輩にはその心臓を握り潰すような冷笑を向ける。
 ―――けれど微笑は、あの人にしか見せない。
 そしてそんな土方が近藤と談笑しているのを見付けたときの自分は、多分くちびるの端に嘲笑を浮かべているのだろう。
 自分も近藤は好きだし、自分たちみたいな人を疑ってしか見定められない人間があの単純明快さに惹かれるのも分かる。

(だけど…だからこそ、俺たちは決して向こう側には行けないんですぜ、土方さん)

 どれだけ傍にいても寄り添っても、相反する空気は混じり合わない。
 その温度差と性質の違いが大きければ大きいほど、気付かぬうちに静かにひずんで軋んでいる。

(アンタの想いも、みんなその空気の断裂に呑み込まれてしまうんでさァ)

 けれどそれが分かったからといって棄てられるほど安い感情ではないし、物分かりが悪いのが感情というものだ。叶わないからと諦められたら誰も苦しまない。自分も、こんなに未練たらしく彼らを見たりしない。みんな、何もかも、面倒で上手くゆかないことばかりで。
 話が終わったらしく別れて離れていく近藤の背を見詰める土方を見据えている自分。
 何とも滑稽な構図だ。
 自覚して、口の端を吊り上げて声もなく嘲笑う。
 ふと沖田に気付いた土方が露骨に眉を顰めた。その口が小さく無音の言葉を紡ぐ。


 何て顔してやがんだ。


 ああ、顔を取り繕い忘れていたとぼんやり思い至った。
 ざり・ざり、と擦るように土を踏んで縁側にいる土方に近付いていく。

「土方さん、見廻りに行きましょうぜ」
「…仕事が残ってる。行くなら山崎でも誘え」

 本当はさっきの隊士と行くところだったのだが、そんなことなど頭の片隅からも放り出して誘いをかけると、近藤と話していたときとは打って変わって渋い顔をして土方は素気無く断る。
 沖田はその様子に怯む筈もなく、ひょいと身軽な動きで草履が一足揃えてある靴脱ぎ石に飛び乗った。それでもまだ頭ひとつ分以上高い位置にある土方の顔を、酷く清み切った真ん丸な眼で見上げる。
 沖田の眼はいつも清んでいた。唯、その眼で考えているのは純粋なことばかりではないというだけで。

「見廻りも仕事のひとつですぜ」
「誰でもやれる、だろ。今は書類が溜まってんだ、今度交替してやるっつっとけ」

 それで話は仕舞いだとばかりに沖田を視界から追い出す。
 沖田は靴を脱いで縁側に上がり、背を向けて部屋に入っていく土方の後についた。
 しかしピシャリと、振り向かない土方の手によって沖田の鼻先で障子は固く閉ざされる。
 障子に手を伸ばし、沖田は開けるか否か逡巡した。彼の顔を今は見ないほうが良い気がする。きっとそこには拒絶しかないのだ。
 格子に張られた薄い紙からは、仄暗い室内の様子は窺えない。反対に、室内からは明るい陽光の落ちる庭を背負った沖田の影が見えている筈だった。
 その隔たりは残したまま、土方は自分の影を見ていると確信して沖田は無感情な声を投げ掛ける。

「慰めてやりましょうか」
「ありもしねェ疵を舐め合うなんざ御免だ」

 すぐさまよく通る、いっそ過剰なまでに冷たい声が沖田の言葉を跳ね返した。
 その頑なさに沖田は誰にも見せない蕩けるような表情で白いかんばせを彩る。

「違いますぜ」

 これはれっきとした、

「愛撫でさァ」

 障子の桟に触れた手に額を重ね、祈るような仕草で眼を瞑る。実際に考えているのは祈りなんていうささやかでキレイなものじゃないけれど。
 そうして感覚を研ぎ澄ませていると、のそりと室内で動く気配。それは猛獣が巣穴から這い出ようとするのに似ている。
 瞼を持ち上げて手と顔を離し、一歩下がって待つ。
 スッと音もなく速やかに障子は開かれた。互いに無言で、視線を交わす。
 何も切り出してこない沖田に焦れた風に吐息して、障子の枠に凭れた土方の高圧的な視線。そこには、僅かな困惑が隠されている。
 関節が白くなるほど強く、組んだ己の腕を掴んで虚勢を張る。どうしてそんなことをする必要があるのか。
 土方さんは脆いひとだと俺はもう知っている。
 なのにまだ何を…。
 瞳孔が開き気味で深い色合いをしている眼を覗き込む。

「土方さん、好きですぜ」
「そんな眼ェして云う言葉じゃねぇな」

 不愉快をそのまま吐き出すような口振りで土方は唸った。
 生憎、自分の顔は鏡でもなけりゃ見れないんだと言葉にせず嗤って、手のひらで彼を引き寄せた。
 抵抗はされない。それが何故かは考えたことがない。都合の良い解釈に夢見るほど愚鈍にはなれないし、曖昧より残酷な無関心を思い知るのはこわかった。
 性急に合わせたくちびるから歯列を割って舌を引き摺り出して絡める。
 ああ、苦い。
 間近で密に生えた真黒な睫毛が震えた。濃厚な口吻けは舌先が痺れるようだ。
 そのままぐっと体重をかけて、土方の足を払い押し倒す。硬い畳で背を打ち付ける衝撃に詰まらせた息を口唇から感じた。

「オイっ…てめ、何しやがんだ!」

 土方が怒りを露にして躰を起こそうとするのを許さず、馬乗りになって蹲るようにその胸に顔をうずめる。ぐりぐりと力任せに額を押し付けて土方の隊服を皺が寄るほどきつく握り締めた。
 そうすると絹糸のように真っ直ぐ流れる沖田の頭髪に、戸惑った手が触れる。

「…総悟?」

 らしくない様子を窺うような、訝しげな声音が可笑しくて沖田は顔を上げた。その眸はやはり人形のように乾いて清んでいて、整った容貌に感情の色は限り無く薄い。

「泣いてると思いやしたかィ?」
「てめェ…ひとおちょくってんじゃねぇぞコラ!」
「引っ掛かるほうが悪いんでさァ」

 抜け抜けと云い張ってやれば土方は口許をひくりと引き攣らせる。
 自分といるとき、土方は殆ど笑わない。怒らせることは簡単なのに、笑わせる術を沖田は持っていなくて。
 それを情けないとか不甲斐ないなどと思ったことはなかった。努力でできることもあるが、そうじゃないことも世の中には多分にある。
 この人のあの微笑は唯ひとりにしか向けられない、唯ひとりの為のものだ。それはどれだけ欲しても手に入らないと、頭が空っぽの自分にもすぐに知れるほど、純然とした事柄だった。
 なのにまだ欲しがる心が残っている、その矛盾が自分を歪ませる。

「土方さん、―――笑って」
「面白おかしくもねーのに笑えるかよ」

 土方は一層憮然とした顔で、沖田を押し退けようと肩を掴む手にも力が込められる。その力はとても強くて痛くて、圧し掛かっている沖田にだけではなく、それ以外の何かにも抗っているようだった。

「お前こそ偶には邪気なく笑ってみろや」
「断りまさァ」
「…断るってことはできんのかよ」

 何だかうんざりした様子で呟く。それは拗ねているようにもどうしてか聞こえて、沖田は内心で首を傾げた。
 立ち上がることを諦めたのか土方は半端に起こしかけていた上体を倒す。視線は沖田を捉えず望洋と天井に向けられた。

「つくづく莫迦だな」

 こんな不毛なことばかり繰り返して。

「アンタには云われたくねェや」

 あんなに切なげにあの人の後姿を見送るクセに、それをひとつの言葉にもしないなんて。

「…ああ、その通りだよ」

 肯定して、表情を覚られないように持ち上げた腕で目許を覆う。
 最も愚かな莫迦者は自分だ。
 沖田の言葉をきっぱりと拒絶すべきだったのに、それをしなかった、できなかったのは自分の甘えだ。
 肯定も否定もせず曖昧に濁して逃げ続けている。
 受け入れてはならない。応えることはできない。だけど、嘘はバレるから口を閉ざす。想いを同じくしても叶わぬこともあるのだと、自分の口から出る言葉に打ちのめされたくなくてだんまりを決め込む。
 沖田が顔を覆う土方の腕を掴んだ。思い掛けない反応だったと、てっきり怒鳴って云い返してくると思ったと、腕を畳に縫い止める沖田の無感情の顔は云っている。

「土方さん?」

 アンタ、どうしたんだィ。
 言外に含まれた問いに、別にどうもしないと眼で答えるだけでも、情けないことに精一杯だった。
 沖田は土方を好きだと云う。
 そりゃ子どもの頃から一緒にいるんだ、心底嫌っていたら近藤の存在があろうともとっくに離れて、近付きもしていないだろう。そういう意味ではないと返されるが、一時の気の迷いだと耳を貸さないようにする。いつまでも、そんなことを繰り返している。
 だって、云えないだろう。
 諦めても笑い飛ばせるようになっても忘れても、死んでも。
 沖田はまだ子どもだから常識も世間体も気にしないでそんなことが云えるのだ。年上の自分まで、それに引き摺られるわけにはいかない。そうなれば、いつか必ずこのことを後悔させる日がきてしまうのだ。
 道を正さなければ。眼を覚まさせなければ。(いつか棄てられる。)過ちを犯さないように。取り返しのつかない間違いをしないように。(棄てられてしまう。)これ以上コイツの唯でさえ歪んだ性格を破綻させてどうする。もう救いようがないじゃないか。
 顔を覆うものを奪われても沖田を真っ直ぐ見ることができなかった。
 お前に俺の気持ちなど分かるまい。
 ぶちまけてやりたかったが、それが沖田を意地にさせるだろうことまで土方には分かっていた。それでは意味がない。
 一度でも関係を結んでしまえば、そのことがいずれ枷になるのだ。だから、恐れている。
 無鉄砲に生きていけるほど自分は強かない。沖田の一生を巻き込んでまでこんな想いを貫き通す勇気もない。気持ちを押し潰すほうがよっぽど、楽だ。
 だから今は苦しいと感じているかもしれない沖田が、きっとすぐにケロッと立ち直るのを、息を殺して待っている。
 忘れた筈の痛みや苦しさやつらさがぶり返していた。
 今どんな顔をしているのかなんて見たくもない。

「本当に、どうしようもねェ莫迦だ」

 吐息で呟いて自嘲のように笑ったつもりだったが、虚を突かれたみたく沖田が眼を瞠るので、失敗したのかもしれなかった。
 もうどうしようもなく重症だ。苦しくてたまらない。

 だから、

 ずっと、







   世界の終わりを待っている。





04.11.07




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