【 薄皮1枚の際 】
沖田×土方
どうか、ください。 約束に意味はない 月の見えない夜だった。 満月だったら良かったのに、と思う。そのほうが、今からの行動には相応しい気がする。遠い月に、その穢れない光に、恋焦がれるように、狂う。狼男が雄叫びを上げる。あれ、あの毛むくじゃらは別に狂ったわけじゃなかったか。 本性。 そうだ、本性だ。 一夜目覚める凶暴な衝動。それは如何なるものか。 叫んで。暴れて。破って。壊して。潰して。犯して。殺して。殺して。殺して。 何かそんなようなものだろうか。 では、一体何がそのような本能を突き動かす。それは月の光だ。月光に本能は暴かれる。 嗚呼、ならば自分には必要なかった。 建物全体が古いせいでギシギシといつも悲鳴を発する筈の床板を、音も立てず気配を消して沖田は進む。深夜の空気は身を切るように冷たい。けれど躰の底で騒ぎ立てる興奮が刀の鞘を掴む手に汗を滲ませた。気分が昂揚するほどにその人形のように端整な容貌は表情をなくし、瞳孔の開いた眸の奥だけがぬらりと輝く。 あのひとだけで、俺の理性は破綻する。 その後に残る本能は純粋な殺気だけだ。 月があっても、なくても、堕ちても、同じ。 視界は狭まり、唯のひとりしか映さないから、同じ。 襖を開く。所々ボロボロになった――自分が今までに何度も刀を突き刺したからだ――畳に足を滑らせる。布団で眠っている男を見下ろす。 闇夜にもなお黒い髪。眠っていてもきつい印象を残した白皙のかんばせ。真選組副長の肩書きを持つ男。殺したい、相手。 静かに刀を抜き放つ。刀身は光がなくても鈍く夜に浮かび上がるようだった。 何処を狙おう。急所。って何処だ。改めて考えたことなんてない。教えられたけど忘れた。いつも何と無く。痛そうな処、死にそうな処に刃を当てるだけ。 眼を走らせる。 額。眼。口。喉。左胸。鳩尾。腹。 何処がイイだろう。 一撃で。一瞬で。滅多刺し。嬲り殺し。 どれがイイだろう。 腹で呼吸して、殺気は完全に包み隠している。 殺す。心臓を停止させる。息の根を止める。息絶える。死んで。 死んで、くだせェ。 刀の切っ先を真っ直ぐ下に。垂直に構え、眠る男の喉目掛けて突き下ろす。 「――――!」 押し潰れたかのごとき声は誰のものか。 暗闇に、チッと火花が散ったように見えた。 両手に、重く硬い感触。 重力に体重と速さを付加した刃は僅かな力に弾かれ、目標から逸れて布団を貫いた。その下の畳の硬さに腕が痺れる。沖田は、くちびるの端だけを裂けそうなほどに吊り上げた。 言葉を発しようとするとさっき無意識に洩れた、ひしゃげた悲鳴のような声のせいで喉の内壁がヒリヒリと痛む。 「何だィ、起きてたんならそう云ってくだせェや。性格悪ィですぜ」 「そりゃ褒め言葉として受け取っとくぜ」 匕首を逆手に握って、つぅと浮かぶ汗を拭いもせず土方は不敵に笑った。 その鞘が近くに転がっている。枕元には刀も置いてあったが、咄嗟に掴んで鞘から抜くには刃の短いほうが都合がいい。だから彼はいつも匕首のほうを手近に備えて眠っていた。 門番もいる屯所にいながらも、いつ寝込みを襲われるやも分からぬと考える彼の用心深さには頭が下がる。おまけにこの敏さ。眠りの浅さ。野生の動物並だ。 沖田はあれだけ昂ぶっていた気分が一気に常のラインまで引いていくのが分かった。力を込めて畳と布団から血を吸えなかった刃を引き抜く。そのまま何事もなかったかのようにおどけて肩を竦めた。 「あーあ。土方さんが避けちまうから布団に穴が開いちまったじゃねェですかィ」 「布団血塗れにしようとした奴が云うな!!」 よく横になったままでこんなに声が出せるものだ。鍛えてでもいるのだろうか。そうならざるを得ない生活に身を投じさせている自覚など全くなしに沖田は不思議に思った。 上体を起こした土方の横にちょこんとしゃがみ込む。おなごのようだと偶に云われる童顔を甘えるように傾ける。 「そんな怒らんでくだせェ。唯の他愛ない夜這いでさァ」 「夜這いは他愛なくねぇしそれは人の首掻っ捌こうとすることじゃねーだろが!」 「チッ。寝起きのクセに頭冴えてやがる」 「冴えとらんでも分かるわボケェ!!」 一瞬にして被った猫を放り投げた沖田が然もつまらなさげに視線を横に逸らして、小声で吐き棄てたのに土方は声を荒げた。まるで怒気の体現のように乱暴な動作で匕首を鞘に突っ込む。 肺をいっぱいに使って酸素を吸い込むと、徐々に眠っていた思考に回転がかかりはじめた。伸ばしていた足を引き寄せて胡坐をかいて、横目に平然とした沖田を見る。 「土方さん、そんな大声出しちゃご近所メーワクですぜ」 「怒鳴らせてるって自覚もなくンなこと云うのはこの口か? この口か、アァ!?」 「ひひはらはんひらひではぁ」 両頬を片手でぐにゅっと鷲掴みされて押さえ込まれても、沖田はいつもの無感情な顔のままで喋る。何と云っているんだか分からないが予想はできた。土方さん痛いでさァ、と云ったのだろう。 ああ、ったくすっかり眼が覚めてしまった。 時計に眼を遣ると草木も眠る丑三つ時だ。本当に、風にそよぐ梢の音すら聞こえない。 沖田の間抜けな声にこれ以上怒る気も削がれ、やわらかな弾力の頬から手を離す。そして、しっしっと犬を追い払うように手を振った。 「お前もう部屋戻れ」 「一緒に寝やしょうや」 「男と共寝のシュミはねぇ」 「俺とアンタの仲だろィ」 「どんな仲だ、どんな」 半眼で呆れたように呟く土方はにべもない。 ついでに少し苛ついているのが表情から分かった。そのささくれ立った心を宥める為だろう、手が至極自然に煙草を探す動きをする。 ふと、その手と共に視線が沖田から外れた。 命を刈り取るのはいつも一瞬だ。 抜き身の刀を掴んだままであった沖田の瞬息の一閃を、受け止めるのも躱すのも不可能だったろう。 それどころか、いかに土方といえど微動だにできなかっただろうと思うのに、彼が動かなかったのは、沖田が決して自分を斬らないと知っているからであるように思えてならなかった。 後少しでも刀身を滑らせれば、彼の首の皮膚を、血管を切り裂く。 宙空の、寸分間違えぬ位置で刃を止めた沖田は手の中の刀の感触を今更に思い出していた。 ジリジリと炙られるような焦燥が臓腑の底で燻っているのに手は冷たく、全身冷えていく。 命を奪う。体温を消失させる。今その権利を、自分は握っている。 優越、なのに、少し、おそろしい。 この人の生に執着する自分。 どうして。 決まっている。欲しいからだ。 何が。 決まっている。何もかも、総てだ! そこには何故もどうしてもない。ただただ、求めているだけ。 それはちょっと、こわいな。 彼の首筋の、薄皮の際で静止させた刀を持つ腕が怠くなってくる。震えそうだ。彼が身動ぎもしないから、自分も引けない。 ひたと沖田を見据える土方の眸は真黒なのに闇に染まらない異質さだった。 いつもは大袈裟に怒鳴りつけるクセにこんな時ばかり静かにしてるなんて、狡いじゃないか。 それにこの人はいつも、沖田に理由を問わない。 命を狙う理由。 大方、副長の地位が欲しいんだろうと勝手に自己完結している。それしかないと思っている。けれど、沖田の心はもっと複雑なのだ。欲求や欲望は多層に重なり合っている。理由はひとつじゃない。 副長の座が欲しいのは否定しないけれど、それだけじゃない。 それを聞こうとすらしないなんて、狡い。 沖田が何を欲しているのか見抜いているのに知らないフリなんて狡い。 そんなの、純粋な俺に勝ち目ねェじゃありやせんか。 息を吐くと、腕の筋肉が僅かに痙攣して刃先がブレた。これ以上は堪えられない。 刀を下ろし、土方の首に抱きつく。 「……何だ」 「………」 「総悟。オイコラ何か云え」 「土方さん、寒いから一緒に寝ましょうぜ」 「俺ァ湯たんぽじゃねェぞ」 「あー、あったけェや」 「あーそうかよ。俺は重てェ」 うんざり、諦めきったような口調で土方は躰の後ろに両手を突く。その躰から緊張が抜け落ちたことに沖田は驚愕した。 沖田がついさっきまで刀を突きつけていたことをまさか忘れたのではあるまい。だのに容易に首に手を回させる土方の神経が知れなかった。 侮られている、と悔しく思う。 けれど、それでも構わないという気持ちがあるのも確かだった。 今はこの体温に触れることを許されているということが重要なのだろう。唯、享受すべきだ。 ―――何故か泣きたくなった。 「…土方さん、アンタ、絶対長生きできませんぜ」 「端からできると思っちゃいねーよ」 「だから、アンタが死ぬまでくらいは傍にいてやりまさァ」 耳に直接声を吹き込むように囁く。 愚かな約束に土方は肩を震わせて、少し笑ったらしかった。 きっと彼の命は彼の為、彼の信じたものの為にしか費やされない。この人の総ては手に入らない。それどころか、完全に手中に堕ちてくるものなど何ひとつとしてない。 ついぞ手に入らないものを、一生希っている。 だったら、と土方は云う。 「俺が死んだら俺は全部てめェにくれてやる」 04.11.23 |