今日という今日はもう我慢ならなかった。限界だ。

「俺が何で怒ってっか分かるよな?」

 腕を掴む手の強さに整った顔をしかめる土方に、低い声音で問い掛ける。
 耳朶を甘く震わす口説くようなそれに、土方は眼を眇めて眼鏡のレンズ越しに銀髪の男を見た。蛍光灯の逆光の中で、年齢の割には酷く落ち着いて見える相貌が今は怒りと苛立ちで熱く凍て付くような凄みを湛えている。
 その表情にギクリとするのを押し隠し、土方は負けじと目の前の男――銀時を睨め付けた。

「テメェに口出しされるようなことじゃねぇよ」
「本当に? そう思ってんの?」

 殆ど同じ高さにある土方の顔を、男が首を傾げて覗き込む。
 細いのに節の目立つ銀時の手に形の良い耳をするりと撫でられ、背筋が冷えた。怯みそうになるのを奥歯を噛んで堪え、土方は顎を引いて前髪で視線を塞ぐ。背が壁に当たっていなければ、思わず後退りしていただろうといいのか悪いのか分からない状況を再認識して、抗議の意をこめて掴まれた腕を払った。思っていたよりもあっさりと、銀時の手から解放される。

「何で、ンな怒ってんだよ」
「……分かんねェなら、自分で考えな」

 顔を上げることはできなかった。悔しいが、銀時の表情を確かめるだけの勇気がない。すると、目の前に掛かっていた影が不意に離れていく。
 遠ざかる気配と足音に眼を上げれば、銀時の後姿が彼の自室に向こうに消えるところだった。パタン、と扉の閉まる音が静かな家に響く。
 それを見詰め、土方は立ち尽くすことしかできなかった。





 ―――高杉とキスしたって、本当?
 ―――本当だけど、それがどうしたってんだよ。

 からからに渇いた喉で絞り出した問いに、返されたのは過ぎるほどあっさりとした答えで。
 悪びれすることもない土方に、いっそ冷たく感じるほどの怒りが沸いた。
 あのひとは、どうして分からないのだろうかと銀時は思う。心がそこになければ、行為だけでは意味がない。それは納得できるが、だからといって何故そうも簡単にキスできるのだ。恋人である銀時以外に。アンタは生粋の日本人だろうが。
 感情が篭っていなければしていいってもんじゃない。感情が篭らないから、しないのだ。あのひとはそれが分かっていない。
 そして本当は土方には自分以外触れてほしくないと、触れられてほしくないと、銀時が思っているということも、分かっていないのだ。

 ―――あのひとには、嫉妬ってもんがねェのかね。……ねェんだろうな。

 前髪を乱雑にかきあげ、深く嘆息する。
 怒りが冷静さを失わせていた。それは分かっているけれど、今回ばかりは銀時から折れることはできない。それはたとえ一晩この冷たい部屋で頭を冷やしたとしてもだ。
 銀時が自室として使っている部屋には、本棚やパソコン机はあってもベッドや布団など寝具の類は一切なかった。置こうと思ったこともない。いつも、あのひとと同じベッドでぬくもりを与え合って眠っていたから。
 頼むから風邪ひくなよ、と自分を叱咤して銀時は小さなホットカーペットの上に寝転がった。たまたま置いてあったブランケットで躰を覆い、眼を瞑る。
 今はそれほど忙しい時期じゃない。だから仕事も持ち帰っていなかった。そうすると、やることなど何ひとつなかった。
 彼がいなければ、生活は途端に無味乾燥なものと化す。
 同じ場所にいるのに別々で寝たはじめての夜は、酷く冷え込んだ。





 普段ならまっすぐ帰路に着く筈が、今日は気付けば職場である学校から自宅方面とは逆へ向かう電車に乗り込んでいた。
 繁華街に向かう電車の窓から暗く沈んだ町に輝くネオンを見ながら、土方はふらりと座席から立ち上がる。ICカードの定期で乗り越し料金を自動精算し、改札を抜けた。
 昨夜は殆ど眠れなかったせいで酷く眠たい。隣にぬくもりがないだけで、こうも変わるものかと土方ははじめて思い知った。いつの間に、銀時の体温があることが普通になってしまったのだろう。
 理由は考えても分からなかったが、銀時を怒らせた。
 その事実を、寝不足の躰の倦怠感から実感する。たまに起こる些細な喧嘩ではない、銀時の本気の怒りを目の当たりにした。その眼差しを思い出すだけで、背筋にまだ少し震えが走る。
 ほんの僅かにでも、銀時をこわいと思ったのははじめてだった。
 今回は、ダメかもしれないと思う。もう、見棄てられてしまうのかもしれないと。
 今までいとしさや愛情や慈しみを滲ませてしか土方を見詰めなかった眸に、一片でも拒絶の色が混じるのかと思うと耐えられなかった。見たくない。見て、平静でいられるわけがない。
 だから、銀時がいるかもしれない家には帰れなかった。
 どんな結末を迎えるにしても、もう少し時間がほしい。受け入れる覚悟を決めるだけの時間が。
 ふらりと入った居酒屋のカウンターで酒を何杯か呷っていると、声を掛けられた。
 流し目に見遣ると、人好きのしそうな笑みを浮かべた男が立っている。顔も躰付きも悪くはない。殆ど無意識に比較しようとした銀色の対象を脳内の掻き消して、土方は男の誘いに応じた。
 ひとり寝は銀時を思い出させるだけだ。ならば、今晩の宿はこれでいいかと妥協する。
 それから少し呑んだ後勘定を済ませ、店を出た。相手の男と何を話していたのか、正直明確には思い出せない。それでも、どうせ一夜限りの相手なのだから構わないかとすぐに思い直した。

「―――っ?!」

 男が案内するままに、後を付いて行こうとした土方の腕を何者かが掴む。
 その手の力強さには覚えがあって、息が詰まった。力任せに後ろへ引かれて、たたらを踏む。
 驚いた土方が振り向こうとするより早く、これ以上ないほどに聞き慣れた心地よい声が鼓膜を震わせた。

「ごめんね。このひとが何云ったか知らないけど、手ェ出さないでくれる? 俺のなんで」
「銀……!?」
「それじゃ、失礼。帰るよ」

 後半は土方に向けて云い、声の主――銀時は掴む場所を腕から手に移して強く握り締める。呆気にとられた男を残して、大通りに向かって早足に歩いていく銀時に土方は踏ん張ることもできず引っ張られるだけだった。
 人波を難なく擦り抜け、広い道路に辿り着くと銀時は空いた手を上げてタクシーを止める。やって来たタクシーが緩やかにスピードを落としはじめたのを認めて、銀時は土方に視線を移すと弱ったように眼を細めた。

「全く、十四郎に考えさせても無駄なんだって今回のことで思い知ったよ」
「悪かったな! てめェが肝心なこと何ひとつ云わね」
「うん。だから今度はちゃんと教えてあげるよ」

 土方の言葉を途中で遮り、銀時は出逢った頃とは全く違う表情で笑みを浮かべる。

「今度は俺が先生になる番だね」





07.02.20




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