山崎×土方/No.2
絶望の音を聞いた。 鈍色の恋 「山崎ィィ!! 刀持って来い!」 屯所の隅々まで響き渡りそうな怒り狂った上司の声に、聞こえないと分かりつつも返事をして山崎は廊下を疾駆した。 一分でも一秒でも早く呼び声の主の元まで辿り着かなければ、タコ殴りの回数が時間の経過に比例して増えていく。呼び付けられる度にちょっとした生命の危機だ。 しかし刀を持って来いとはどういうことなのだろう。取り敢えず手近にあったものを引っ掴んできたのだが、山崎は首を傾げた。 自分が何か、彼の怒りの琴線に触れるようなことをやらかしてしまったわけでもない、と思う。 板張りの廊下の角を横滑りに急ブレーキをかけるように曲がって、副長の仕事部屋の前までひた走る。障子の前で立ち止まって、山崎は呼吸を整える為に一度大きく深呼吸した。 「副長。山崎です」 「入れ」 今にも爆発しそうな、限界ギリギリの土方の声に怖気つきそうになりながら、そっと障子を引く。と、いつも大抵いる位置に土方がいなくて、山崎は拍子抜けした。 ぱちくりと瞬きをするけど、目の前の光景に変化はない。取り敢えず部屋に踏み込んで、後ろ手に障子を閉ざした。 「あれ? 副長ー?」 「此処だ。此処」 姿は見えねど声はする。 そんな幽霊現象みたいな状況に山崎はビクッと跳び上がって、何故か足音を潜めて声のする辺りに近付いていった。そして机の陰に、声の主を発見する。 「……何で隠れてんすか」 「今はあんま人に会いたくねぇんだよ」 物凄く不服そうなしかめっ面で土方はうめいた。 それからのそりと、気怠げに躰を起こして胡坐をかく。その時、床にだらりと下ろした彼の腕に、何か光るものを山崎は見つけた。 両方の手首をそれぞれクルリと取り囲む環と、そのふたつの環を繋ぐラインのいずれもが金属性の光沢を放っている。 「副長、それ…」 手錠じゃないんですか、と最後まで云うことはできなかった。指摘しようとした瞬間に強烈過ぎる凄まじい眼光で睨み付けられて。 けれど、それから土方は体裁が悪いことを恥じるように眼を逸らし、苛立ちに任せて舌打ちした。 「云っとくが、好き好んで嵌めてるわけじゃねぇからな」 「わ、分かりました! 分かってます!!」 ガクガクと頭が転げ落ちそうなほどの勢いで頷いた山崎は、土方に倣って刀を抱き締めたまま腰を下ろす。 土方は手錠に繋がれた状態で不便そうに取り出した煙草に火を点けようとするが、巧くマッチが擦れず煙草のフィルターを噛んだ。 代わりにマッチを擦って発火させてやると、そこに煙草を銜えたまま先端を近づけてきた土方の、仄かな炎に照らされた伏し目がちの表情にドキリとする。 煙草に火が移ったのを確認して、そんな疚しい感情を追い払うようにマッチの火を大きく振って消した。それでも見抜かれやしないかと、声がどもりそうになるのを山崎は必死で抑える。 「けど、だったら、何でこんなことになってんですか?」 「総悟の莫迦のせいだ」 口にするのも忌々しいといった様子で土方の顔が苦渋に歪む。甦ってきた記憶にまた激昂しかけるのを堪えるようにこめかみを指で揉んで、眼を瞑った土方はこの上なく深く溜息を吐いた。 土方が所用から戻ってきたら、机の上にその手錠はあったのだという。 真選組も一応は警察組織なので、幾つか手錠も支給されてはいる。だが、武装警察という性質上、それが使用される機会はほぼ皆無で、備品の奥に仕舞い込まれて誰もがその存在を忘れがちな代物だった。 何故そんな物が此処にあるのか。 部屋にいた沖田に訊くと、倉庫の整理を手伝ってたら出てきて、面白そうだったから拝借してきたと答えた。 「だって考えてもみてくだせぇよ。俺たちは警察なのに、コレ使ったことがねぇなんてヘンな話でさァ」 「つったって、俺たちの仕事は逮捕じゃなくて斬ることだろうが」 土方が冷静に反言すると、沖田はつまらなさそうに口を尖らせた。 そんな子どもっぽい表情をしても騙されないし、可愛くとも何ともない、と土方は断じる。この男に甘い顔を見せてはいけないのだと、長い付き合いの中で骨身に沁みていた。 「犯人逮捕する任務とかないんですかィ」 「それは俺たちの管轄じゃねぇ」 「ないんですかィ?」 「ない」 「絶対に?」 「ない」 「手、出してくだせぇ」 「ぁん?」 カシャン――! 土方にはそれは、絶望の音に聞こえたという。 行動を制限するものの冷たい質感を半ば茫然と見下ろし、案外呆気ないもんですねィ、と無感情な声で云う沖田を次に睨み付ける。 「何しやがるんだ、コラァァ!!」 「ちょっとくらい試させてくれてもいいじゃねぇですか」 「だったら外せ! すぐ外せ、今すぐにだ!」 手を目の高さまで持ち上げて怒鳴ると、手錠の鎖が揺れて軽やかな金属音が鳴った。 沖田は焦れったいほどゆっくりと取り出した、玩具みたいな形状の小さな鍵を見せつけるように指先で振る。 そして、ニヤリとくちびるの片端だけを吊り上げた。 瞬時に厭な予感が背筋を駆け抜けて、土方は鍵を奪い取ろうと手を伸ばす。が、それより沖田の動きは速かった。 くるっと土方に背を向け、勢いよく障子を開け放つ。それほど広くない屯所の中庭と、晴れ渡った空に向かって沖田は大きく腕を振りかぶった。 鍵を拳に握り込んで引き絞った腕を、思い切り外に解き放つ。 追い付けない速さで、手の中にあった小さなものは、何処かへ飛んでいった。 土方は声にならない声を上げて、取り縋った障子の桟をへし折りそうな強さで掴んだ。 「似合ってますぜ、土方さん」 「即刻俺の前で死ね!」 ポン、と土方の肩を叩いた沖田の手を跳ね除け、何かもうよく分からないけど怒りの余り泣きそうな心境で足を蹴り上げる。渾身の力で放った蹴りを沖田は飛び退いて躱すと、そのまま廊下を走り去っていった。 「俺は土方さんが死ぬまで絶対死なないでさァ」 「あ、てめっ! 待ちやがれ!!」 咄嗟に追い駆けようとしたのだが、腕の動きが制限されるので碌に走れないと気付き、歯軋りをして断念する。 ヘタに追おうとしてもこの状態では追いつけそうにもないし、隊士の眼に触れれば副長としての沽券に関わる。というか、単純にこんな姿を人に見られたくない。 だから怒りを堪え、障子を閉ざして部屋に閉じ篭ったのだ。 「で、此処に隠れてたんですか」 「隠れてたわけじゃねぇが、まぁそんなもんだ」 土方は決まり悪げに口に挟んだ煙草を上下させ、膝に頬杖をついて紫煙を吐く。頬に添えた手に繋がったもう一方の腕はだらりと宙空に吊られていた。それは何処か投遣りな態度に見える。 「それじゃ、何で俺を呼んだんですか? こんなのまで持たせて」 鞘に収まった刀を示して、山崎は首を傾げた。 まさかこれから沖田を斬りに行くというわけでもないだろう。手錠というハンデまであるのでは、まず彼に勝つことはできない。無謀もいいとこだ。 土方は片目だけを開けて、鎖をチャリチャリと鳴らした。 「これを切れ」 「はい?」 「邪魔なのはこの鎖の部分なんだよ。これを切っちまえば残るのは唯の環っかだ」 どうせ、沖田は鍵を投げたフリだけして隠し持っているに違いないのだから、手錠の環は後で外させればいい。両手の環を繋ぐ鎖さえなければ取り敢えず行動に支障は来たさないのだ。 面倒くさそうに説明する土方に、山崎は成る程と納得した。 そして云ったらすぐ行動とばかりに土方は、灰皿に煙草を押し付けてから鎖をピンと張るようにして両手を床に置く。空中で切らせようとするなら、そう高くない天井の下で刀を振り上げなければならないことからの配慮だろう。 ………勿体無い。 「だからとっとと切れ」 「だ、ダメです!」 反射的に答えてしまってから、自分でも何故、と思った。 そうして、何か、自分の思考の片隅に勿体無いという意識があったことに気付く。 だって、彼は自分を頼ってきのだ。 パシリだからでも、勝手が良いからでも、誰でも良かったが単に呼び易かっただけでも、理由は何でも良い。現状を見てみれば、彼は山崎を頼ったのだと云えるから。 自分がいなければ、自分がしなければ、彼は不便を強いられたままで。それを自分だけが助けてあげられるのだという、一種の快感にも似た嬉しさ。 そんな滅多にない機会が、あっさり終止符を打たれてしまうなんて、何だか勿体無い。 手錠に繋がれた土方という非日常的な出来事も手伝って、この状況を少しでも長続きさせたいという欲が生まれてくる。 山崎はぎゅぅっと刀を握り締めた。 「俺の云うことが聞けねぇってのか?」 「いや、そうじゃなくて! あ、えと、床に疵がつきます!」 「はぁ?」 「結構目立つんですよ、疵って」 「じゃあどうしろってんだよ」 「………えーと……外、とか?」 「…………」 苦し紛れの提案は、とびっきり胡乱な眼差しに迎撃される。 けど、今はそんなに怖くなかった。斬られそうになることもないし、殴られそうになっても今なら避けれる自信がある。 何なら、自分が彼の首筋に刃を突きつけることだって可能なのだ。 そう考えると、ゾクリとした。 手に異常なまでの力がこもって、湧き上がる情動を山崎は懸命に噛み殺した。体中を巡る血液が熱くて、心臓の音が耳の奥で強く速く響く。 「山崎?」 訝しげに名を呼ばれても、関節を極められそうになって慌てて後退しても、山崎は土方の顔を直視できなくなっていた。 どうしよう。どうしよう。 同じ言葉が脳内をグルグルと回る。 自分が優位に立つことなんて今まで有り得なかった。だから今まで自覚していなかった思い掛けない感情の発露に山崎は途惑う。 どうしよう、土方を自分のものにしたいなんて。 自分なしじゃ生きていけないくらい、彼にとって必要な存在になりたい。 何でもやってあげて、大切にして、慈しんであげたい。 そんなの全く必要ない相手に、そんなことを、思うなんて。どうすればいいんだ。 そりゃ、殴られても蹴られても切腹を迫られても、どれだけ無茶な要求をされても理不尽な振る舞いを受けても、この人の下を離れたいと思わないのはおかしいと思ってたけど。 それって好きってこと? トクベツってこと? そんな、莫迦な話ってあるだろうか。 同性の上司に、恋をするなんて。 弱りきった八の字眉で土方を窺い見る。 不自由な腕を気にしながらも偉そうな態度はいつものままで、彼は切れ長の眼を眇めた。覗き込みたくなるような深い色の虹彩が、僅かな光を弾く。 「……ッ」 山崎は土方の行為を制限している鎖に思わず手を伸ばし、ぐいっと強引に引っ張り寄せた。 至近距離に怪訝な顔をする土方が見えて、そこで漸く我に返る。だが、掴んだ鎖を離すという動作には思い至らず、そのことが更に混乱を呼んで山崎はまごついた。 「そ、外行きましょう、外!」 そう云って急かすように鎖を引くと、不本意そうながらも土方はそれに従って立ち上がる。 丁度、隊士の大半が出払っている時間帯だったからか、見付からないように人気のない建物の裏手まで移動するのはそれほど苦もないことだった。 「さて、と。早く切れ。仕事が溜まってんだ」 空の下では空間を意識する必要がないから、無造作に立った土方は手錠の嵌められた両腕を前に突き出す。 山崎は惜しむ気持ちを振り払って頷き、刀身を鞘から抜き放った。 傾きはじめた太陽の光に刃が煌めく。これが、この時間を終わらせるのだ。 大きく変革してしまった自分の心を意識する。それは、これからが始まりだ。 刀を正眼に構え、狙いを定めて振り上げる。 手の中に衝撃と、金属の欠ける甲高く鋭い音が響いた。 それは、終わりと始まりの音だった。 04.07.15 |