山崎×土方/No.3
暑さの余り、俺の頭は腐ってしまったのかもしれない。 アツイアサ ジリジリと焼けて、イイ感じに焦げ目なんか付きそうだ。 それくらい、今日も陽射しは強烈だ。 まだ朝だというのに、熱帯夜の余韻を残して熱気を上塗りしていくように体感気温は着実に上昇していた。 そうすると、朝から日暮れまで休むことなく響く蝉時雨は、暑さに負けた蝉たちの悲鳴なのかもしれない。 そんな詮無いことを考えて、手で顔を団扇のように扇ぎつつも、屯所の廊下を湿気のこもった暑さをものともせずに足取り軽く歩いていく。 最近、仕事が愉しくてしょうがない。 スキップもしそうなほどに浮かれるのも当然というものだろう。 出勤して俺が先ず行く処は副長の仕事部屋だ。 今や俺の役目は副長のパシリというのががほぼ公認となっている。だから毎朝の報告と、通常業務以外に何か指示があるのかどうかを、出勤するといちばんに訊きに行くのだ。 これが結構オイシイ位置なのである。彼に想いを寄せる者としては。 普通なら、しがない監察方の一人である自分が、組織のナンバー2である副長と頻繁に関わるなんてことは有り得ない。だから公然と後ろに控えて、認められるということは凄く幸運なことなのだ。 些細なことも下らないことも大事で重要なことも、大抵何でも副長は俺に命令を下す。それも偏に、決して失敗をすまいと気をつけ、命令を迅速に的確にこなし、期待以上の働きをしてきた俺のたゆまぬ努力の賜物だった。今では偶にそれを裏切って、余計なことをしてみたりして怒る副長の反応を愉しむ余裕まで生まれてきたほどだ。 その結果として激昂した副長に殴られるのは痛いし、斬りかかられるのは命懸けだけど、それでも俺に馬乗りになってくる副長は積極的な感じで何かイイ。なかなか見れないアングルで見上げる、荒く息をつくあの人の表情は一見の価値アリだと思う。 ちょっとばかり良からぬ想像を一時追い払って、目的の部屋の障子を横に引いた。 「副長、はよーございます」 「ああ」 停滞する熱気と同じくらい気怠げな声は開け放した窓のほうから聞こえてきた。窓を通って僅かに吹く微風に縋り付くように、窓の桟に両腕を置いて外を眺めていた副長が眼だけで振り返る。 常から瞳孔開きまくりでギラついている眸が、力なく垂れた瞼に半分隠されていた。呼吸すら重労働だとでも云いたげに薄く開いた口から重い息を吐く。 ここ連日の真夏日熱帯夜で副長は少し夏バテ気味らしい。そんなに暑さに弱いのなら、クーラーに頼ればいいのにこの人は人工の冷風は嫌いだと我儘なことを云うのだ。 ゆったりした動作で躰ごと向き直って、窓に凭れた副長はその辺に放り出してあった上着を引き寄せた。内ポケットを探って煙草のパッケージを取り出す。 彼が口を開くのを、俺はじっと待っていた。薄いが触り心地の良さそうなくちびるが煙草を銜えて、それを手に持ち替えると紫煙と言葉を吐き出す。 「動向に変化は?」 「ありません。水を打ったように静かなもんですよ。向こうも、この暑さじゃ動く気にならないんじゃないですか」 寧ろそうあってほしいという、これは俺の願望だ。だってムチャクチャ暑い町中を真っ昼間に走り回りたくなんてない。そんな張り切らず、じっとしててくれと思う。 それは多分副長も同じ思いだろう。今の状態じゃ、怪我のひとつでも負わされかねない。――いや、もしかしたらこの人は刺激があると案外簡単に復活するかもしれない。本来こうしてダレているのが似合わないような凶暴な性格で、喧嘩が大好きな人だ。 灰皿の縁で煙草を叩いて灰を落とした副長は、蝉がかしがましく鳴く外を見遣った。視線を逸らされることで、漸く見詰めることのできる副長の顔は、深く思案する様子で黙っていれば相貌の端整さが引き立つ。 全開に開いた窓の桟に肘を突いて、鋭く眼を細めた副長は、だと良いがな、と独り言のように呟いた。 「夏になると毎年、暑さと祭りにトチ狂う連中が出てきやがる。普段より夜を重点的に、警戒を怠るな」 「分かりました。他には何か」 「…特にねぇな。昼間はいつも通りで構わねェ。山崎、」 「はいよっ」 「茶」 「すぐ淹れてきます!」 俺は素早く応えて、くるっと踵を返した。部屋を出て給湯室にひた走る。 狭い給湯室でテキパキと茶葉や湯呑みを用意して、水を入れた薬缶を火にかけた。 屯所にある茶葉はお世辞にも良いものとは云えない安物だが、それでも副長に少しでも旨いお茶を飲んでもらいたくて、いろいろと淹れ方を研究してみたりしている。その、今のところ最良と思っている手順・分量でお茶を淹れながら、台の上にあった何か高価そうで美味しそうな和菓子をひとつ頂く。 手掴みして齧り付くと、控えめな餡子の甘さが上品な感じで美味かった。二口で胃の中に収めて、ついでにもう一個銜える。 湯気と芳香の立ち昇る茶を注いだ湯呑みをお盆に載せて、副長の仕事部屋に戻った。副長愛用の湯呑みと、俺のを机に置き、口に挟んでいた和菓子を手で持ってから喋る。 「副長、どうぞ」 「……一応訊くがその和菓子はどうした」 半眼で睨みつけてくる副長の表情の意味が判らなくて、首を傾げる。和菓子の残りをきっちり食い終わってから俺は答えた。 「給湯室にあったんで食べても良いのかなーって」 「ンなわけねーだろが、このっ阿呆!! ナニ客人用の菓子食ってんだよ!」 「何云ってんすか。屯所にあんな高級品出す客なんて滅多に――」 「来るんだよ、そんな客が!! だから普段は無いもんがあるんだろうが! 高いと判ってて食うな、莫迦山崎ッ」 激しい言葉と共に強烈な拳が飛んできた。 躱せるわけがないそれを俺は頬に受け、痛みに悲鳴を上げて吹っ飛ぶ。床に倒れて、反射的に瞑った瞼を押し上げるより早く、襟首を掴まれた。 俺の腹に跨った副長の、険悪な色を宿しているのにキレーな眸が間近に見える。長めの睫毛がそれを縁取っていた。 襟を掴み上げられ、揺さ振られると脳がシャッフルされるみたいで気持ち悪くて酔いそうだ。殴られた頬も痛い。痛い。けど、鼻先が触れるほどに近くで副長の顔が見れるのってちょっと役得? 「てめェ切腹するか、アア?」 「いや、どうせなら腹上死が良いなぁ、なんて」 「巫山戯んな。俺に手を下されてェのか」 「副長の上だったらマジに倖せで死にそうです」 副長をあられもなく喘がせ、乱れさせられたなら本当に、死んでしまいそうなほど幸福だろう。この人はどんな声を上げるのだろう。どんな媚態を晒して、どんな色っぽい表情で―――いけない、妄想が暴走しそうだ。 景気良くボコられてる間も、俺の頭の中はそんな不埒なことでいっぱいだった。 一頻り殴って気が済んだのか、副長は俺を突き放して立ち上がる。俺は痛む自分の躰を為す術なく床にぶつけた。 「ったく、代わりを買ってきておけよ」 「経費で落ちます?」 「と、思うのか?」 凄く高い位置から見下ろされる眼光の鋭さに流石に本気で生命の危機を感じて、首を左右に打ち振る。 心底呆れ果てたように溜息を吐いた副長を見上げ、切れたくちびるの端を舌で舐めた。鉄錆のマズイ味と臭気が口内を占める。 やっぱり、この人の夏バテは暇に起因するらしい。喧嘩や、その他の暴力的な、そんなようなものがあると途端に活き活きとする。 寝そべっている床はぬるい。蝉の声が喧しく室内まで埋め尽くす。聞くだけで暑い、その感覚と同程度かそれ以上にお日様の下は暑いだろう。 そんな中を和菓子買いに行くのは嫌だな。……一人じゃ。 「副長、」 「んだよ」 「幕府御用達の和菓子店なんて知らないんで、連れてってください」 「三途の川になら今すぐ送り届けてやるぞ」 「そしたら副長が買いに行くんですか?」 「………地図書いてやるから遣いくらい一人でこなせ」 「らじゃっ」 こんなに仕事が愉しいと思えるなんて、俺ってマゾなのかもしれない。 04.07.29 |