山崎×土方/No.4




 世界中のあらゆる言葉をどれだけ尽くしても、
 俺が貴方の総てを理解できないように、
 俺の感情や想いや魂は貴方の心までは届かない。







     ココロは何処





 紙ばかり詰まった段ボール箱は恐ろしく重かった。

「ったく、何で非番なのに俺がこんなことしなくちゃいけないんだよ」

 周囲に人がいないのをいいことに山崎はブツブツと声に出して愚痴っていた。
 今は忙しい時間帯ではないから、屯所にはそれなりに人がいる筈だ。だが、山崎が歩いている廊下は建物の端、それも物置に使われてる部屋しか並んでいない処なので比較的静かだった。ぺたぺた、と裸足で歩く自分の控えめな足音しかしない。
 腕が痺れそうな重みの箱を、ヨッという小さな掛け声で持ち直す。そして、溜息。
 自分の仕事じゃないのに、自分は非番なのに。一度は了承したことを未練たらしいとは思うけど、愚痴らずにはいられない。既にこれまた結構重いダンボール箱いっぱいの洗剤と、軽いけど嵩張るタオルを大量に運び終えていた。お中元かと思うような品ばかりだ。事実、そうなのかもしれない。
 山崎は午前中ずっとやっていたミントンの素振りを一休みして、テレビなどが置いてある隊士たちの休息室で昼飯を摂ってからぼーっとしていた。
 そこで、この公式文書用の紙がいっぱいに入った箱やら何やらを物置に運んでくれと同期の隊士から頼まれたのだ。市中見廻りの予定時刻が差し迫っていて時間がもうないのだと云う。
 備品の整理と同時に行う点検は、歴とした業務のひとつである。やらないわけにはいかない。自業自得だろ、と山崎は云いつつも断って此処に置いたままにしておかれると、思いの外神経質な副長の土方に見付かれば片付けを云い付けられるのは自分に違いなかった。そう思って山崎は渋々といった顔を崩さずに、夕餉のおかず一品と引き換えで引き受けたのだ。
 今晩のメニューが、大食いが多いせいか台所事情のあまり宜しくない真選組では滅多にない豚カツ――つまり肉であることを山崎は知っていた。寧ろ、それくらいの見返りでなければ割に合わない。

(あれ?)

 所定の物置部屋の前まで来たところで、山崎は廊下のいちばん奥にある部屋の障子が開いていることに気付いた。首を傾げる。
 さっきまでは確かに閉まっていた筈だ。誰かが用事があってあそこにいるにしても、何の物音もしないのは可笑しかった。大方、閉め忘れていったのだろうと予想をつけて後で閉めに行くことにする。
 行儀悪いとは思ったが足で障子を横に開き、漸く荷を降ろすことができた。
 ふぅ、と深く息を吐いて、筋が突っ張ったような感覚を訴えてくる腕をぷらぷらと振る。それから壁に掛けてある備品リストのファイルを手に取った。
 真選組は武装警察という性質上、荒っぽい仕事ばかりしているからこういった細々とした物の管理は杜撰だと思われがちだが、意外にきっちりとしている。それは土方の厳しい監視の目があってこそ成り立っていると云えることなのではあるが。でなければ今頃は点検はおろかこの部屋の整頓すらもされていないだろう。
 過去に、そういうところに目をつけ、屯所の備品をくすねて小遣い稼ぎにフリーマーケットで売っ払った莫迦な奴がいたのだ。
 隊長格以上にでもならない限り、基本的に隊士はみな薄給なのである。殆どの隊士がそうであるように屯所住まいだと、予め食費・光熱費など諸経費が引き落とされてしまうから手元に残る給料など高が知れていた。貯金と娯楽の両立は難しい残量である。
 その代わりの利点と云えば、どれだけ財布の中身がスッカラカンでも最低限の衣食住は確保されているということくらいだ。しかし人間、それだけではなかなか生きていけないものである。金が無ければ非番にはダラダラしているしかなく、同僚と飲みにも行けない。他の連中も似たような懐具合であるからして、むやみにたかることもできないのだ。
 そんな事情があるとはいえ、それでも備品を売り払うなどやっていいことではない。
 事が露見したとき、こすくせこい真似が一等嫌いな土方に抜き身の刀をピタピタと頬に当てられ、彼の険悪な眼と雰囲気に完全に呑まれて、顔を蒼くした男の死にそうな表情を山崎は今なお思い出せる。
 その隊士は罰として一日不眠不休で屯所の門番をした後、端から端まで走ってタイムがとれそうなほど、やたらと長い縁側の雑巾掛けを10往復させられていた。内容は小学生並だが程度が尋常ではない。
 それ以降、点検・管理を徹底せずとも倣おうとする底無しの莫迦はさすがにいなかった。

(よし、これで終わりだよな)

 最後に記入洩れが無いかざっと確認してから、ファイルを元に位置に戻して部屋を出る。障子をちゃんとピッタリ閉じて、山崎はいちばん奥の部屋に向かった。さっき障子が開いているのに気付いた処だ。
 傾いてきた太陽の光は水平に、縁側の廊下と其処に面した部屋の中に射し込んできている。件の部屋をひょこっと覗いて見ると、やはり誰もいなかった。
 ―――いや、人はいた。
 影になって見えない壁際から、日光の当たる部分へと無造作に投げ出された足を床に見付けて、山崎は声にならない引き攣った悲鳴を上げた。最近寝る前に、『殺人事件』がタイトルについた推理小説を読んでいたものだから一瞬、死体かと思ったのだ。建物の端に位置する人のこない部屋、闇と陽光のコントラスト、だらりと伸びた足、条件は充分過ぎる。
 しかし、日常に屯所でそんなことが起こる確立など万分に一もないと思い直して、少し落ち着きを取り戻す。咄嗟に後退りしてしまった躰をそろそろと部屋の中に押し込んだ。
 白い靴下を履いた爪先から足、暗がりに入ってその先の壁に凭れているらしい上体へと順に視線を走らせて、誰なのか見定めようと眼を凝らす。

「ふ、く長…?」

 暗さに慣れてきた眼にぼんやりと浮かんできた顔に驚いて、山崎は茫然と呟いた。パチパチ、と何度も瞬きをするが、それはより明確に目の前の人物を認識するだけだった。紛れもなく真選組副長の土方である。
 彼は眼を瞑っていて、眠りに落ちているようだった。山崎の洩らした小さな声にも反応しない。
 どうしてこんな処で寝ているのだろうか。
 居眠りの原因は恐らく、昨夜の幕府高官との接待だろう。酔い潰れた局長の近藤を引き摺るように連れて帰ってきたのは明け方だったと屯所の門番が云っているのを聞いた。暗いうちは物騒だから酔いがある程度醒めるまでは迂闊に動けず、それを待つ間も彼はきっと眠らなかったのに違いなかった。そして局長を倒れさせるわけにはいかないだろうと云って聞かず、今日は近藤を休ませて自分は働いているのだ。
 その病的な自己犠牲の精神を、山崎も知っている。同じものを飼っている。
 けれど土方は己の限界も熟知していた。最低限の休息をとってこそ、極限まで自分を酷使できることを学んでいた。ある意味ではそのほうがタチが悪い。悪くても、誰にもそれは止められないのだ。
 山崎がどれだけ諫言しても聞き入れられることは無いだろう。ゆったりと胸を上下させて寝息を吐く土方の刺々しさが抜けた顔を傍にしゃがみ込んでジッと注視する。
 副長ともなれば個人の執務室も私室も与えられているのに何故こんな奥まった物置で眠るのか。今度はその理由を考える。
 それにもすぐに思い当たった。
 以前に、まだ彼が己の限界を知らなかった頃、書類をしたためていた時に唐突に睡魔が訪れたらしくそのまま机に突っ伏して寝てしまったのだ。それだけなら何とも無いのだが、よりによって土方をからかうことに全身全霊を打ち込む沖田に発見された。
 墨で頬に渦巻きを書かれた。
 それに気付かず眼が覚めた土方がたまたま山崎を呼び付けたものだから、その顔を見た瞬間に腹の底から噴き上げてきた笑いを噛み殺すことが出来なかった。それでも決して悪いのは自分じゃない。あんなのを不意打ちに見せられて笑うなと云うほうが土台無理なハナシだ。
 そうは思っても口に出しても無駄で、彼の気が済むまでボコられるのを出来るだけダメージを減らしながら耐えるしかなかったのだけれど。それでも鼻血は出るし口内は切るし、久々に派手な蒼痣もできて相当酷い有様だった。思い出すだに痛くて、顔を少しだけ顰める。
 あんな悪戯をもう二度とされない為に、彼は人知れずこの場所で眠ることにしたのか。思えば彼は時折、ふらりと行方が知れなくなることがあった。普段はサボるなと他の隊士を叱るクセに何処へ行ってしまったのかと不思議だったのだが、思いがけず回答が得られてしまった。
 限界を超えて昏倒するように眠りに就く前に、それを察知して彼は此処へやって来る。
 静かな顔の土方を、これだけ近くでじっくりと見詰めることができたのははじめてだった。いくら近くても馬乗りになって殴られたりしていると、どうしても視界がブレてしまう。
 土方を観察していた時にも、これだけ接近するのは無理だった。
 観察といってもそれは尾行の練習としてのことである。まだ技術に不安があった頃、土方に気付かれないまでに上達すれば、どんな人物にでも通用するだろうと考えたのだ。
 プライベートまで探るような悪趣味は持ち合わせていないから仕事中の、土方が屯所にいて自分に暇があるときと限って尾行の腕を試し、磨こうとした。
 しかしどういうわけか、必ず気付かれるのだ。
 距離をとって、死角に潜んで、直接目線を向けないように、どれだけさり気なさを装っても、他の人では――沖田相手にだって気付かれなかったのに、どれだけ訓練しても土方にだけは覚られる。
 彼は山崎が彼の動向を窺いだすと直ぐに此方を向いた。そして柳眉を寄せて怪訝そうにする。
 本来なら、だからこそより一層の努力をするべきなのだが、山崎はそれをしなかった。
 尾行の時、対象に向ける視線は無色でなければならない。なのに、自分が彼に向ける眼には種火のような感情の色がついていることに気付いてしまったが故に。
 だから、土方にいつも覚られてしまったのだろうか。無意識だった分だけ、あからさまだったのかもしれない。それに付く名までは思い至らずとも。
 尾行の練習台にする対象を変えざるを得なかった。変えて、気付かれたことはなかった。
 土方のことを、いつからそんな眼で見ていたのかは山崎自身にも分からない。唯、自覚してからはつい彼の気配を探るようになった。その場にいなければ何処で何をしているのだろうかと思いを巡らす。
 直視することはできなくなったのに、覗き見た一瞬一瞬はおそろしいほど鮮明に脳裏に焼き付いた。
 今も、そう。

「副長、副長……土方さん」

 もう呼ばなくなった名前をそっと大切に舌に乗せる。
 土方は眼を覚ます気配も無い。思いがけず長い睫毛が、震えもせずに下を向いていることに思考を占めるのは安堵か不安か。
 掠れた語尾の、情け無さを恥じ入るように山崎はぎゅっと拳を握った。


「副長、好きです。…好きなんです」


 俺の心の大事な部分は、心臓はこの人の存在に喰われてしまった。
 心臓が一手に担っていた血液を循環させる為のポンプの機能が失われて、きっとだから全身が心臓になったように激しく脈打つのだ。耳の奥で、沸騰しそうな脳の中で、小刻みに震える手のひらで、死に急ぐ鼓動を感じる。
 だからこの人がいるだけで苦しくて堪らない。
 何処ぞへといなくなって、いっそこの世から消え、俺の眼に触れなくなってくれたらどんなにイイかと思うのに、きっと事実そうなれば苦しみはいや増しするだけなのだ。

 ゴクリと喉を鳴らし、息を詰めて土方に躰を近付ける。
 此方の心情など知らない穏やかな寝息が聞こえた。彼のそれには血のにおいが纏わりついている気がする。山崎の心臓を喰らい尽した残滓だ。
 心臓を取り戻せと、空いた胸腔が叫んだ。
 この空洞を埋めるものを探している。それは目の前で眠るこの人の総てでなければならなかった。他の何ものでも、満足できはしない。
 思考は鮮やか過ぎる赤に染まっていた。
 土方との距離は限り無くゼロに近い。
 寄せたくちびるに吐息が触れる。

「ッ――!」

 ザァ、と鮮血の赤は引く波のように消えた。
 一気にクリアになった理性で山崎は我に返る。
 尻餅をついて口吻ける寸前まで至近していた顔を離した。
 胸を服を鷲掴みして押さえる。心臓が壊れそうな速さで暴れている。
 心臓は、そこにあった。
 当然のことを改めて思い、己が成そうとした行ないも同時に映像として再生されて呼吸が引き攣った。
 動転したままよろけて転びそうになりながら立ち上がり、脇目も振らず部屋を飛び出して走る。
 何処に行こうとしているのか、自分には分からなかった。










 バタバタ・バタ、と慌ただしく走り去っていく足音とその僅かな振動が完全にやんでから、瞼をそっと押し上げる。


「意気地無しが」


 くちびるを指でなぞって、低く呟いた。





04.10.05




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