銀八先生×土方




 ねぇその向こうに、何が見える?






   距離感を狂わす






 土方にはそれが雪崩を起こす寸前の雪山に見えた。

(この机の何処に置けってんだよ)

 一クラス分のノートを両手で抱えて、苦々しく舌打ちをする。
 ずり落ちてくる鞄をちゃんと肩に提げることもできずゴミ棄て場みたいに乱雑な机を見下ろした。

(土方ァ、集めたノートは生物準備室の俺の机の上に置いといてー)

 常に生気が抜けているような、やる気のないムカツク担任の声が甦ってくる。
 あンの、ぐうたら教師め。ノートを置く余地など何処にもないではないか。
 色んな物が絶妙としか云いようのない均衡を保って積み重なっている担任教師の机は、どう考えても仕事のできる環境じゃなかった。此処がこの様子じゃ、職員室の担任の机も似たような状態であるのに違いない。一体何処までダメ教師を貫けば気が済むのか。
 折り重なるプリントやら問題集やらの合間に見えるプラモデルの箱とエロ本を土方は極力無視しようとした。明らかに私物を持ち込むな。
 傍に机から引っ張り出されたままの椅子を見付けて――流石に何も乗っていない――、ノートは其処に下ろす。これによってあの男の座る場所がなくなろうが知ったことではない。何もかも不真面目で散らかし放題にしているほうが悪いのだ。
 教科書の大半は教室に置きっ放しにしてあるから軽い鞄を肩に掛け直す。色褪せたカーテン越しの夕方の光は、電灯を点けていない室内にぼんやりとした影を作っていた。部活動の声も聞こえない、静かな部屋。踵を返すと上履きの底が床と擦れてキュッと音を立てる。
 扉の横、窓際の低い棚の上には顕微鏡や洗って乾燥中のシャーレ、薄く張った水と吸殻でいっぱいのビーカー。そしてその横には眼鏡が置かれてあった。

(………眼鏡?)

 一瞬見間違いかと思ったが注視してみると、どうもそうではないらしい。興味と視線と足が自然と其方に吸い寄せられて、土方は眼鏡を摘み上げた。
 何処にでもありそうな銀色の蔓にフレームレスの眼鏡は、格好に頓着しないあの担任教師のものじゃないだろうか。灰皿代わりにされたビーカーの陰にいつも彼が吸っている銘柄のパッケージを見つけ、更にそれを確信する。
 けれど、そうなると彼は今眼鏡を掛けずにいるということだ。視力は良いほうの土方には分からないが、普段掛けている眼鏡なしで動き回れるものなのだろうか。
 手入れを怠っているのか、心成しか曇っているように感じるレンズの向こうは景色が大きく見えた。結構きつめの度が入っているようだ。益々、これが此処にあることが不思議に思えてくる。
 窓から室内に躰ごと視線を転じて、棚に体重を預ける。弄ぶように眼鏡を眼の高さまで掲げて、たたまれた蔓を広げる。
 じぃっと見詰めるレンズの中は自分とは違う視界。
 霞んだレンズを通して、あの男はいつも何を見ているのだろう。
 この眼鏡と草臥れた白衣とだらしなく緩められたネクタイと飛び跳ねよじれた銀髪の、反面教師の大人。巫山戯た、けれど計り知れない男。
 土方は何を見透かしているのか分からないあの眼が嫌いだった。視線が絡むと心の裏側を不躾に触られるようで、落ち着かなくなる。この焦りさえ気付かれているのではないかと無性に苛立つ。
 いつも余裕で、何でも無い顔をして、此方を振り回すだけ振り回して、掻き乱す。
 受けたキスも、本気だと云う言葉も、全然信じられない。曇ったレンズで、いつも真情は覆い隠されている。
 生きてきた時間と、重ねた経験が違う。子どもと大人では、立ち位置がまるで違う。
 きっとだから男が何を見ているのか分からず、飄々と吐かれた嘘を見破れないのだ。
 そんなことがもどかしく苛ついた。いつか一矢を報いてやりたい。そう思っている。
 土方は持ち上げた眼鏡のレンズを覗き込んだ。ここからの景色を知れば何か変わるだろうかと思ったというよりは興味本位で、それを掛けてみる。

(うわ…っ)

 総てが大きく近く見える世界はいっそ暴力的に眼を刺した。
 グラリと躰の揺らぐような眩暈を感じ、咄嗟に瞼で遮断する。支えを欲した手が棚の角をギュッと掴んだ。ガチャ、と音が鳴る。俯いて瞼と指に力を込めて、何とか体勢を持ち堪えた。
 掛けてみると予想以上にこの眼鏡は度が強くて、虫眼鏡を掛けているような気分だ。遠近感も距離感も狂うばかりで。
 どんだけ近眼なんだよ、と眩暈が残る脳内であの男を思い切り罵った。
 そっと、眼を薄く開いてみる。床が異様に近くに迫ってくるようで気持ち悪い。外そうと眼鏡に手を掛けたが、不快な視界の端に便所ゲタを履いた足を見付けてギクリと動きを止めた。硬直して、言葉が出ない。顔も上げられない。その間に、扉のほうからゆっくりと近付いてくる。ひらりと翻る白衣が見える。

「土方、お前俺の眼鏡掛けて何やってんの?」

 やっぱりだ。この男だった。いつの間に。いつ戻ってきたんだ。どうして。どうして気付かなかった。何故、気付けなかった。
 ぐるぐると思考は空転ばかりして満足のいく働きをしてくれない。機転の利かない自分が忌々しくて、腹立たしい。すぐ近くまで遠慮無く歩み寄ってくる足音も耳に障る。
 どうしようもない羞恥に土方は眼鏡を毟り取った。莫迦みたい、なんて程度じゃなく本当の莫迦だ。熱の溜まった血が沸騰するように感じるけれど、顔色はきっと変わっていないだろう。それだけが救いだった。元より感情の読まれにくい顔なのだ。
 自分の爪先の直ぐ前で教師の足が止まった。節くれ立った手が土方の頬を撫でるように動いた後、俯くことを咎めて乱暴に顎を掬う。男は愉快犯のような笑みをくちびるにだけ刻んでいて、悪趣味だと吐き棄ててやりたかった。

「もしもーし、答えてくんない?」
「……な」
「何でもない、はナシね。何もないわけねェもん」

 先手を打たれ、言葉に詰まった。握り締めた眼鏡が歪んで割れるんじゃないかと思う。
 この場で適当にでっち上げられそうな理由も思いつけない。歯噛みしたいほど、状況は限り無く不利だった。逃げ道が見付からない。
 生ぬるい態度でやさしさのない言葉で追い詰めてくるこの男が嫌いだと思った。もう教師なんてイイもんじゃない。心の底から。嫌い。嫌いだ。
 眼にするだけでもわけの分からない焦燥が噴き出して、視線を横に泳がせる。土方を囲い込むように棚に手を突く白衣の腕が見えた。その手が力の抜き方を忘れた土方の手の中から眼鏡を取り上げていく。
 沈黙が耳に痛くて、耐え切れなくて、土方は声帯を震わせた。

「……唯、気になって」
「コレが?」
「何を見てるのか…」
「俺が?」

 肯定してしまうのが厭で、頷きもせず無言を通す。
 骨格が軋みを上げそうなほどがっちりと顔を固定していた男の手がふと緩んだ。瞳孔と虹彩の見分けがつくほど近くにあった眸が細められ、見えなくなる。頬をやわらかな銀糸の髪が擽った。今にも笑い出しそうに薄く開いた口唇から漏れる呼気が耳に触れる。


「それってさァ、俺の考えてることを知りたいって云ってるのと同じことだよ?」


 低い囁きに、ひくり、と痙攣するように揺れた肩だけが素直な反応をした。
 少し笑って顔を離すと、睨み上げてくる眼は真っ直ぐで激しく、きっぱりと云い切る声は潔い。

「そんなの、知りたくありません」
「じゃあ何で俺が何見てるのかなんて知りたいの?」
「それは…」
「それは?」
「分かりません」
「何で。自分のことだろ?」
「………」
「考えるのが怖い?」
「怖くなんか、」
「だったら考えてみろよ」

 手を緩めずに畳み掛けていけば土方は悔しげにきゅっと下くちびるを噛んだ。棚の天板を苛立たしそうな爪が引っ掻いている。深く息を吸ったのが上下した肩の動きで知れた。
 その一瞬で、がらりと空気の色が変わる。
 捕食者が獲物に喰らい付く瞬間のように、眸が鋭さと迫力を増して。隠されない感情は強く、殺意とすら感じさせる。肌に触れる空気までピリピリと狂暴さを孕んだ。恐らくこちらのほうが本性なのだろう、そのいっそ鮮やかなまでの豹変振りに、善くない感情がゾクリと背筋を這い登る。

「……てめーのことなんざ考えたくねェ」
「あら、反抗的。被った猫が剥がれ落ちてるよ?」
「変態教師相手に被る意味なんてありませんから」

 剥き出しの刺々しさと厭味を男は平然と受け流す。あまつさえニヤリと笑みまで浮かべて見せた。
 タチの悪そうな印象しか与えないそれに、土方は右眼の下に皺を寄せて不信感を露わにする。表情筋を動かすことさえも面倒くさいと云いかねない男の笑みは、何処か退廃的で薄ら寒かった。

「イイねぇ。そういう小賢しさは嫌いじゃないよ」
「先生に好かれても嬉しくとも何ともないです」
「えー、そんなこと云われちゃうと益々好きになるよ?」
「マゾですか?」
「いやいや、苛め甲斐があるってこと。そうだ。今俺が見て、考えてることを教えてあげよう」
「結構です」
「そう云わずにさ」

 視線を交わしたまま、眼鏡を置いた男が土方の手を捕らえた。繋いだ手は滲んだ汗が気化して冷えている。
 土方は乾いた手の感触と、じんわり伝わってくるあたたかい体温に狼狽したように身じろいだ。指を絡めようとする手をぱっと振り払う。
 その隙を突いて背中に回った腕に、抗えないほど強く引き寄せられた。肩口に顔をぶつけると、白衣と躰の隅々にまで染み付いた男の煙草のにおいがきつくなって。それで頭の中はいっぱいになって。息苦しい。

「今は土方を抱き締めて、」
「……ッ」

 口吻けは苦い味がして、くちびるをやわく噛まれるとそこから痺れが走るような錯覚に震える。ちゅ、と音を立ててから離れた男のくちびるはまだ笑んでいて、言葉を紡ぐ動きから眼が離せない。

「キスして、」
「………はっ……ン」

 ぬるりと滑り込んできた舌の感触が生々しく、見てられなくて眼を瞑る。何も掴めない手が宙を彷徨った。
 後退りしかける足が棚に当たる。それでも何とか逃れようとすれば棚に乗り上げるしかなかった。中途半端に腰掛けるかたちになって足が床から僅かに浮く。
 息継ぎもできない。唾液を飲み込めない。口腔を荒らす異物の気持ち良さが気持ち悪い。
 酸素や思考力を奪うキスとその体勢の不安定さにもがいた指が見つけたものにぎゅっとしがみ付いた。

「いっぱい触って、」
「ぅ、………ア…?!」

 ホックなんか留めてない詰襟を寛げて喉に舌を這わせると途惑った土方の声が上から聞こえて可笑しかった。首筋に噛み付いて笑いを殺す。
 ギリ、と走る痛みに息を呑んだのが気配で伝わってきて、労わるように噛み痕を舐る。それまで白衣を掴んでいるだけだった手に渾身の力で突っ撥ねられた。
 土方の表情を見て、これくらいでそんなに顔を歪めるなんてまだ青いなァ、なんて思う。

「それ以上のことだって、したいと思ってるよ?」

 分かんねェ?と至近距離にある男の愉しげな眸が問い掛けてくる。
 そんなの、分かるわけない。眼鏡がなくなっても見えたのは、そこが底無しに深いということだけだった。混乱は、増す。
 呼吸が苦しくて喘ぐ。それを無理に抑え込むと声は酷く硬い拒絶を含んだ。


「知りたくなんか、なかったです」


 その言葉の意味を男は知っていた。
 拒む言葉。拒否の意味。


(君は俺が嫌いだね)


 それによって刻まれた疵が思ったより深くてうろたえるけれど、そこは大人だから完璧に包み隠す。
 君の言葉に疵付くことなんかないと、遊戯の一環の他愛無いものだって顔をする。そう、言葉は戯言で、コレは遊びだ。
 本当に本気だなんて覚られたら逃げられる。今は、まだ。時期尚早。

「そう? それは残念」


 嗚呼。
 近付き過ぎるべきではなかったんだ。
 目測を見誤った。
 重大な、過失。
 距離がゼロになればきっと呼吸の仕方も忘れてしまう。


 きっと、何かひとつ隔てるくらいが適正な距離だったんだ。






3-Z銀土祭さまに提出したものの微改訂版。
お題の『09.眼鏡』で書かせていただきました。

04.Nov




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