高杉×土方/No.1









 「目的?」と、予想外のことを訊かれたように男は見えている右眼の端に皺を刻んで反問した。
 土方はそれに反応を返さず、畳に躰を横たえたまま不愉快さを露わにして睨め上げる。疵付き疲弊しきっている躰にそぐわぬ、紅蓮のような激しい憎悪を孕んだその視線を男は心地好さすら感じながら受け止めた。
 何が目的だ。
 酷使して熱をもった喉の痛みに耐え、嗄れた声で問うたのは土方だった。そして男は、今更それを考えている。
 一連の言動を、目的のない行為というには無理があった。何処かに何かがある筈だ。男が、敵である筈の土方を殺さない理由が。リスクのでかい戯れにしても、計略の一部にしても、或いは無目的だったとしてもそれを確かめておく必要が土方にはあった。唯々無為に、時間を過ごしているわけにはいかない。
 自力で逃げられるものならそうしたかったが、現状では不可能だった。腕を縛っていた縄がいつの間にか外されていても、腹に石を詰められたようなこの躰で逃げ果せるとは思えない。長時間に渡る拘束で腕や肩は感覚を忘れている。悔しくても現実は正しく冷静に受け止めるしかなかった。
 直截に問いかけたところで正直に喋ると思うほど楽観的なわけでもなかったが、探りを入れるには手掛かりとなる材料が少なすぎた。聞き出そうにも僅かな発声でさえも掠れてしまってつらい。指一本満足に動かせぬ状態でできることはあまりに限られていた。それでも、来るかも分からない助けをのうのうと待っているつもりはないのだ。
 灰吹きに煙管の灰を棄てた男はまた刻み煙草を火皿に詰めながら、隻眼を虚空に彷徨わせる。疵でもあるのだろうか、左眼を覆う包帯の清潔な白はこの男と不気味に調和していた。
 紅い火を火皿に入れて、ゆらりと紫煙が立ち昇る。旨そうに煙草をのむ男を見ていると土方は口寂しくなった。いつも咥えていたのに突然取り上げられたそれは日常の象徴だ。強制的に隔絶された日常を思って弱気になりかける己を土方はきつく戒める。拳を握ろうとした手には力が入らず、広げて躰に被せられただけの着物を緩く掴むだけだった。悔しい。こんな無力な自分は厭だった。苦しくてたまらなくて叫びたい気持ちで、土方は眉根をギュッと寄せる。
 光量の少ない行灯で照らしきれない部屋の隅には闇が凝っていた。そして、ぼんやり揺らめく光に浮かび上がる土方と高杉しかこの世界には存在しないかのような錯覚を抱かせる。光の領域の間際に落ちたふたつの椿は茶色に変色して萎れかけていた。
 雁首に疵が付くことも厭わず、カンと威勢の良い音を立てて無造作に灰を叩き落とした煙管を男は煙草盆に置いた。澱んだ闇より薄らいだ黒の影が行灯の火で不規則に揺れている。

「壊れていく様を見てェからだよ、他に何があるってんだ?」

 何故それが分からない。理解できない要素など何処にもないだろうと言外に問う声音だった。
 その、純然と当たり前のことを口にしていたような顔色が一変して陶酔の喜悦を乗せる。くちびるの端を高く吊り上げ、高杉はうっそりと呟いた。


「てめェがいなきゃあの組織が壊れて、そこのヤツらがみィんな死にゃ、てめェが壊れるだろ」


 こんな余力など何処に残っていたのだろう。
 躰に掛けてあった着物を撥ね退けて男に飛び掛りながら、真赤に灼ける思考のほんの片隅に残った冷静さで土方は思った。
 全身の激痛も体内の疼痛も関節の軋みも忘れ、怒りに哮る激情に唯突き動かされる。緩く着流した着物の襟を掴んで高杉を背中から畳に叩きつけた。上から膝で胸を押さえ込む。殺意が溢れて土方は叫んだ。圧迫されたように眼球が痛い。血管が千切れそうだ。自分が一体何をしようとしているのか分からなかった。この手には、眼前の憎い男を切り刻める刀もないというのに。けれど黙って聞き流すことなどできなかった。

「高杉ィィ!!!」

 ビリビリと空気が振動するような怨憎の声が迸る。その快さに掴んだ胸倉を締め上げられながら高杉は哄笑した。
 部屋中に充ちる狂った笑い声で、土方は我に返ったように手の力が僅かに緩む。眸の奥に隠しきれない困惑が浮かんでいた。高杉は息が切れるまで笑い続ける。行灯の中の焔に合わせて陰影が妖しく揺らぎ、男が何か恐ろしいもののように見えた。この男は狂っている。そう実感し、ゾッとした。
 ふっと着物を離した土方の、疵と痣に彩られた裸身を見上げて男は酷くやさしく微笑した。


「俺みてェに壊れろよ」


 云いながら、キレイに血は拭われて裂けた皮膚の隙間から薄紅色の肉が覗く疵口に指を滑らせると、土方は走り抜ける痛みに眉を顰めて。爪を突き立てられる気配を察し、咄嗟に高杉の手を振り払った。嫌悪感を露わにした眼は殆ど無意識に刀を探している。小刀は高杉の腰の下にあって土方には見付けられず、奥歯をギリと噛む音さえ聞こえそうな苦い顔をした。怒りと憎しみを込め、吐き棄てる。

「冗談じゃっ、ねェ…!」
「まァ、そうやって粋がるのも勝手だがな。けど、だったらオメーは大事なもんを誰かに奪われても諦められんのか?」

 そんなこたァ、できねェだろう。我慢なんねェだろ。復讐を、誓うに違いない。
 そしてその圧倒的な絶望と悲嘆と憎悪と悔恨に、心は壊れるのだ。
 強い絆は時に弱点となる。ひとりでも欠ければ容易く瓦解するという点において。かつて、己がそうであったように。
 本能の傍に棲み付いた、凶暴なものを抑えられなくなるのだ。
 反論できず押し黙った土方を嘲笑う。正常ぶっても無駄なのだと。絆とは、お前の場合云い換えれば執着なのではないのかと。嗤う。自嘲する。
 知っているさ、何でも。てめェは俺と同種のものなのだから。
 一目見ただけで直感した。土方は自分と同じものを腹の中に飼っているのだ。選び辿り進んだ道がほんの僅かにズレていただけで、俺たちはとてもよく似ている。相似形といっていいほどに。なのに、信じたものが違ったというだけで土方には光ある道が拓け、己には破滅の選択しかなくなった。
 理不尽だと思った。何故この男は何も失くしていないのだ。
 大切なものに囲まれている。護るという手段が残されている。
 自分は護ることができなかった。失ってしまった。
 だから、嫉ましかったのかもしれない。羨ましかった。
 躰の奥底に潜む激情を制御するだけの幸福に充たされているこの男が。
 俺には壊すという選択肢しか残されなかったというのに。
 ―――そんなのァ、不公平だろう。お前も、俺と等しく苦しむべきだろう?

「てめェの大事なもんを全部殺してやるよ」

 そうしてその眼が狂気に犯され、染めあげられる様を見たい。

「だから、壊れろ」
「……るさい」
「壊れろよ壊れろよ壊れろよ壊れろよ壊れろよ壊れ」
「煩ェ!!」

 振り上げた拳が強か男の頬を殴った。叫ぶと瞬間的に呼吸が激しくなって土方は肩で喘ぐ。顔が横にぶれ、鈍痛に低く唸った高杉の眼の色がぎらりと変わった。
 落ちた前髪の影の中で、磨き上げた白刃のごとき獰猛な眼光。
 危機感は感じたが反応の鈍った躰では躱せなかった。こめかみに鋭い痛みと鈍い音。頭蓋骨に脳がぶつかるような衝撃。小刀の柄で思い切りぶたれ、倒れ込みそうになる躰を持ち堪えようとすると脚からズキッと痛みが突き抜けた。掠れた空気が苦痛に押し潰された肺から絞り出される。その隙を狙って蹴り飛ばされ、完全に体勢を崩した。組み伏せられる。後頭部を鷲掴みにする手で顔が上げられない。鞘の落ちる音を畳が吸い込む。男は満面に狂気を湛えて笑む。閃く刃を薄く斬り付けただけだった土方の腕の疵に、ざく、と突き入れた。

「あ、ぐ……ッ!!!」
「どうやら、まだ足りてなかったみてェだなァ?」

 畳に赤黒いシミが増える。それぞれの疵は致命傷になりえずとも死は確実に近付きつつあった。それでも土方は足掻くことをやめず。男を睨み据える。
 手負いの獣のような、焔を失わない眼の鋭利さが愉快だった。
 その激しさ、熱さをも塗り潰す絶望の昏さを、お前は知らないだろう。

 俺を隅々まで蝕んだ闇を、いとしいお前にも。





Next


































 ひとりになりたかった。
 だから沖田がいないときを狙って市中見廻りに出ようとしたのに、こんなときに限って土方を目敏く見付けた隊士が付いて来てしまった。どうやっても共に行くの一点張りで云い包めることができなかったのだ。
 俺は餓鬼かってんだよ。
 まるでお目付役かのように半歩後ろを歩いている隊士の気配を感じながら苛々と煙草のフィルターを噛み締める。それを口から離し、ふぅ、と煙を細く吐き出した。
 自分が歩む速度と、ほぼ同じテンポで後ろから聞こえる草履の足音。いや違う、硬質な革靴の音だ。何を聞き間違えているのか。らしくない。また苛立ちが募った。
 歩調を速める。特に言葉を交わすでもなく背後の音もついてくる。気配は遠ざからない。鬱陶しい。今は、今も、誰にも傍にいてほしくないのに。
 漸く普通に活動できるまでに回復した躰。安静を云い渡されて寝ていたか、部屋に篭もってひたすら書類処理だけをしていた間はどれだけ望んでも、屯所にはいつも人がいてひとりにはなれなかった。それが、やっと。
 久々に受け止める外の風は太陽の下でも冴え冴えと冷たかった。吐く息は白く曇り、紫煙と大差ない。そんなどうでもいいことに存外に心が躍った。後ろをついてくる人間さえいなければ。

「…………」

 ふと思い立ち、一緒に来ていた隊士を撒いた。
 それは呆気ないほど容易に為され、追ってくる気配がないことを確かめて土方は大きく息を吐く。自分でやっておいて何だが、これでは指名手配犯にも簡単に逃げ切られてしまうんじゃないかと不甲斐無く思った。いつか徹底的に鍛え直したほうがいいかもしれない。
 そんなことを考えつつ、まだ吸う余地のある煙草を咥えた。人通りの少ない道を吹き抜ける風が紫煙と髪を攫う。
 一度は生々しいまでに現実感を帯びた悪夢は、平凡で安穏な暮しの中で再び遠退いていった。日常に紛れて質感を失い、朧げになって今にも忘れ去られようとしている。
 ふらりと足の向くまま漫ろ歩きをして、煙草の煙を風に流す。白く薄い三日月が残る晴天の空は蒼く高く清んでいて、悪い気はしない。
 短くなった吸殻を携帯灰皿に押し込み、新しいものに口をつけた。眼を伏せて先端に触れるライターの火に意識を向ける。小さな赤が煙草に移った。ゆら、と白い煙が揺らめいて昇る。
 そして視線を前方に戻したときにはもう、そこにいた。

 ―――黒い、獣が。
 
 その獣の眸に灯った光の昏さと、凶暴な角度を描く笑んだ口許から眼が逸らせない。
 脳髄を揺さ振り麻痺させる低い狂気の声が、その酷薄そうなくちびるからは紡がれるのだ。
 そのことを、土方は明確に思い出せるのだった。



「久し振り、副長サン」








And that's all ... ?






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2004.12.17