物干し竿に掛けられた真白いシーツが風に煽られ、はためく。 八戒は一瞬脳裏を掠めた空白を埋めるように周囲を見回した。 少々古ぼけた、見慣れた家の壁。掃除したばかりの窓。手入れの行き届いた家庭菜園。シーツと共に靡く洗濯物。 自分が立っているのは庭で、いつものように空は蒼い。 流れるのは変わらぬ日常。 なのに僅かに蟠る違和感の正体を、八戒は少し離れた木陰に見つけた。 「あなたがいるということは、これは夢ですか」 「察しが良いですねぇ。こんにちは、八戒」 風が、肩まで伸びる己と同じ濃褐色の髪をサラリと揺らし彼の顔を撫でた。眼鏡のレンズ越しに合った視線が気まずく、瞼を下ろすと触れる風を感じる。夢ではなく、現の。 彼の挨拶からして、今は昼であろう。 記憶を手繰れば、開けた窓から入る風が気持ち良くて窓際に引き寄せた椅子に腰掛けたまま眠ってしまったような気がする。 「八戒? 酷いですね。無視しないでくださいよ」 近くで聞こえた声に眼を開ければ、いつの間にか距離を詰めた彼が覗き込んできていた。 酷いと詰りながらも笑みを湛えている男の鏡になるように、八戒も形ばかりの笑みを貼り付ける。 「してませんよ。唯、これが夢だってちゃんと理解しておかなきゃなぁ、と思って」 「戻れなくなるから、ですか?」 「…………」 否定すれば嘘に、肯定すれば真実になりそうでどちらも選択できず八戒は口を噤んだ。 分かっている。本当は今直ぐにでも起きたほうが良いことくらい。 此処は、危険だ。居心地が良すぎる。 唯一愛したのが双子の姉であったように、自分は切っても切れない何かに繋がれた者でしか心からの安堵を得られない。背徳を内包してもなおそれは余りあり、他のものでは充たされぬのだ。 よく似ている、と云われた花喃の面影を持つ彼は恐らく八戒とも似ているのだろう。それがどんな関わりも無いとは、到底考えられない。 何か、あるのだ。自分と彼には。――――血よりも深い、何かが。 そして自分は一度それを失ったというのに、性懲りもなくまた縋ろうとしている。縋ってしまう。 かつて、切れないと信じ込んでいた糸は断ち切られた。 刹那さえ永遠だと思えたのに、刹那は泡沫と消えてしまった。 そうして、他人を愛せない自分だけが残されたのだ。 そこへきてこの男に抗いがたい感情を抱いているなど、自分は一体どれだけの背徳と禁忌を重ねようというのか。 甘いと思えた蜜は最早苦く、躰の内側をじくじくと灼く。 それでも、断ち切ることはできないと分かっていた。 この男は、やさしくもないのに。 乱して、掻き回して、いつだって翻弄されてばかりで。触れられたくない本心を抉る言葉ばかり浴びせられる。 やさしいひとなら、もっと他にいた。 だが、他人では決して及ばぬものは、今はもう、この男しか持ち得ないのだ。 いつか離れても、離れない繋がりが必要だった。何もなければ不安で仕方ない。 どれだけ想ってもいつか離れてしまうのではないか。棄てられるのではないか。 そのような暗雲が常に心を占め、それでさえ不確かである繋がりが無ければ耐えられない。 誰も信用できない、なんてコドモじゃあるまいし。とんだお笑い種だ。何もこのひとでなくとも。もっとやさしくて、そう、例えば―――。 「赤毛の彼と同居しはじめて、どのくらいになります?」 殻に篭もりかける八戒を惹き付けるように、彼は問うた。その八戒を見ていた鳶色の眸は今は何処か眩しそうに家を眺めている。 熱を持ち、ともすればオーバーヒートしそうな頭を軽く振るって、八戒は俯いた。 「同居なんていいものじゃありませんよ。僕が居候させてもらってるんです」 「そうですか? 僕は向こうはそうは思ってないと思いますが。―――で、どのくらいです?」 「…2ヶ月弱、ですね」 答えると、自分の意志とは関係なしに過ぎ去った時間を否応なしに自覚させられる。 彼女なしに、生きてきた時間だ。 クッとくちびるを噛み締める八戒とは対照的に、満足げに頷いて彼はニッコリと微笑した。 「なら、もう良いでしょう?」 瞬きもしていないのに、世界が急速に褪せたようだった。 総てが色味を失い、レプリカに見える視界の中で真白なシーツと男が羽織っている白衣の裾が激しくはためく。なのに不思議と風の音は聞こえず、男の声だけが明瞭に鼓膜を震わせた。 「…………え?」 「もう、良いでしょう?」 かろうじて出た声に、彼は云い含めるように先の言葉を繰り返す。 何が、と訊きかけた言葉は喉に絡んで声帯を震わせることも叶わなかった。 ザー、と耳の奥を血流が今更ノイズのように響く。眼が眩みそうな、嫌な予感が脳内で警鐘を鳴らした。 彼の口がゆっくりと開かれるのを、殺意で以って止めてやりたい。その衝動をすんでのところで堪えた。 「新しい名を貰って、新しい眼も貰ったでしょう? そろそろ、前も見てもバチは当りませんよ」 いつまでも過去に囚われなくていいのだと、男は言外に告げる。それがどれだけ残酷な言葉であるのかを知っていながら。 八戒が眸を閉じて懺悔と悔恨だけ見詰め続けることを望む者などいないのだと、八戒とて知っている。眼を開けたそこに、今はもう哀しみが存在しないことも。 総てが新しく塗り変えられた世界は、きっと光に溢れている。その光の中で、幸福を感じることさえできる。 何よりもそれを願うひとがいるから。 いつか、哀しみを喜びが上回る。 ―――悟能、貴方は、生きて。 その倖せを誰よりも願ってくれていたひとの声が、脳裏の遠くに甦った。聴き過ぎて擦り切れる寸前のテープのように薄れた小さな声に、八戒は酸欠を起こしそうな口から言葉を絞り出す。 「い…やだ。ッ、置いて……!」 置いていかないで、と最後まで紡ぐことは叶わなかったがそれでも眼鏡の男には通じたようだった。少し弱ったような微妙を、秀麗なかんばせに乗せる。その些細な変化で、八戒には分かってしまった。 突き放すつもりなのか。また、―――また。貴女も、目の前の彼も。 視線が絡むと、肩まである髪を無造作に下ろしている男は子どもに云い聞かせるような声音で八戒の頬に触れる。 「いなくなったりしませんよ。いつだって貴方の傍にいます。けど、もう貴方の前に現れる必要が、なくなるだけですよ」 「必要って! あなたはっ、そんなもので…!」 必要不必要で切り棄てられるような存在なのか、彼にとって自分は。 そう考えると、睨みつける表情が悔しさに歪んだ。 すると彼が珍しく慌てたように笑みを崩す。 「ああ、御免なさい八戒。必要ないなんて云って…。でも、気付いているでしょう?」 この夢の終わりが、もう近いことに。 まるで秘密を打ち明けるような男の声音の意味を噛み締め、八戒は瞬きをする。 その一瞬で世界は移ろった。 辺りの景色は壁紙のように剥がれ落ち、白一色に染められている。感覚を狂わせ、空間の存在すら疑いそうなひたすらの白に、いつも着ている彼の白衣の裾が溶け込むように滲んでいた。心成しか、彼自身の影も薄くなっているような気さえして八戒は問い掛ける。 「これ、は……?」 「貴方がもう僕を必要としない証拠ですよ」 今にも消えそうな白衣の袖に伸ばしかけた手を、八戒は無理矢理押しとどめた。引き止めてはいけない、と理性が叫んでいる。この結末が、男の思い描いたものなのだと直感する。 ――――それが、あなたの望みなら。 ならば、虚勢を張っているだけだとしても立ってみせようと思った。 これ以上の無様を晒すことはできないし、どれだけ追い縋ってもこの男は跡形もなく消える気なのだから。だからきっぱりと決別したほうが吹っ切れるように思えた。 だけど、どうしようもなく。喘ぐように呼吸が浅くなる。両の肺が痛むように胸は軋んだ。瞠った眼球が乾いて痛みを訴える。 それでも今、眼を閉じるのが怖かった。 黙りこんだ八戒を宥めるように彼は目許を和らげ、八戒の手を掴む。名残惜しい、とでも云うように。そしてそっとくちびるを動かした。 「泣いちゃいそうですよ」 嘘吐き。 平気な顔で笑ってるクセに。 そう喉まで出かかった非難を八戒はぐっと呑み込む。 頬を伝う雫を掬い取る指は冷たく、額に触れたくちびるだけが微かな熱を残した。 「そんな鬼みたいな顔で怒らないでください。―――また、逢えますよ」 ―――うそつき。 03.10.11 |
5年近く前に書いたものを今回この部屋を作るにあたり引っ張り出して修正してみました。 挿絵はてんさんが描いてくれました。ありがとうございます! |