スニーカーを踵まできっちりと履き、上履きを突っ込んだゲタ箱の戸を乱暴に閉めた。
 やたらと風圧を受ける扉を押し開けて外に出ると途端に真冬の凍える風が吹き抜ける。高杉はあずき色をした生徒には専ら不評なジャージのチャックを上まで引き上げた。ポケットに両手を突っ込んで、やはりサボったほうが良かったかと後悔しはじめる。しかしこれ以上コートと手袋を着込んで見学してばかりいると単位が出せなくなるぞ、と体育教師に云われては仕方がなかった。
 高杉は寒いのが嫌いだ。そして勿論、暑いのも嫌いである。
 縮こまって猫背でグラウンドに向かう高杉の背を後ろから駆けてきたクラスメイトが叩いた。

「高杉ー、余計ちっさく見えっぞー」
「てめェみてーにヒョロ長いよりはマシだ」

 亀のように首を竦めて云い返してやると、高杉の悪態に慣れているそいつはケラケラ笑いながら追い抜いていった。この寒さをものともせずにハーフパンツとは、高杉には狂気の沙汰としか思えない。
 もう4時間目の始まる時間だというのに中庭の池にはまだ氷が張っていた。それどころか、校舎の影に入ってしまう為に一日中凍ったままということも珍しくない。
 正面玄関からグラウンドに行くにはふたつある校舎に挟まれた中庭を通り抜けていくのがいちばん近道だ。だから大半の生徒はそこを使うのだが、授業開始のチャイムが鳴るギリギリの時間に歩いているのはもう高杉だけだった。さっきのクラスメイトはおそらく最後に教室を出て鍵を閉める係だったのだろう。
 しかし、だからといって急ぐ気になどなる筈もなく高杉は日向を選んでゆっくり歩いていた。風さえ吹かなければ鮮烈な太陽の下は思いの外暖かい。


「どーした、不良少年?」


 不意に掛けられた声は何処か愉快げな響きをしていた。
 高杉がそちらを向くと、開け放した保健室の窓の桟に頬杖を突いた土方が声音そのままの表情で笑っている。意地の悪い弧を描く口に咥えられた煙草は細く煙を上げていた。
 この学校は元当直室だった狭い喫煙室以外、敷地内全面禁煙とされている筈である。その中で堂々と喫煙しているとはイイご身分だ。窓を開けているのがせめてもの良識とでも云うつもりだろうか。高杉は眼帯で覆ったほうも一緒に眼を眇め、グラウンドから保健室に足先の向きを変えた。
 始業のチャイムが耳を掠めたが、大らかで大雑把な体育教師は多少の遅刻なら笑って見逃してくれるのを知っている。だから高杉はつまらない授業よりも目の前の共犯者を選んだ。

「お前がジャージ着てるトコなんざはじめて見たぜ」
「うるせーよ、不良教師」

 土方の揶揄に、一層不機嫌な声を出すと冷えた空気が一気に肺まで染み込む。
 地面より校舎の床は高いから、外で立っている高杉と中で椅子に座っている土方の目線はほぼ同じ位置だった。交わる視線は秘密を共有する関係独特の濃密さで、だのに酷く冷ややかだから熱を感じさせない。
 紫煙をくゆらす土方が、授業が始まっているから早く行けなどと云わない辺り、余程今日は暇らしい。そんな自分本位な精神構造をしていても学校で地方公務員をやってられるとは世も末だ。いや、やることは一応きちんとこなして、それで相手によっては――例えば高杉には――こんな態度なのだからタチが悪いのか。
 有害を吐息して指から薄いくちびるに移った煙草を、高杉は奪い取った。土方の非難の眼差しを素知らぬフリで無視し、一服だけ口をつけてから足元に落とす。銘柄までは分からないが莫迦みたいにキツイ煙草だ。
 ふ、と紫煙を吐き出して厭味ったらしく高杉は心持ち首を傾けた。

「校内禁煙」
「ポイ棄て禁止」

 しかしすかさず揚げ足を取られる。酷薄そうな口唇は仄かな血色をしていて、時折覗く白い歯列との対比がいやらしい。そしてそこから放たれる言葉はまるで可愛げがなかった。――年上の男に可愛いも何もあるものかとも思うが。
 窓枠に乗せてあった灰皿を土方が差し出してくるから仕方なく、靴底で揉み消した吸殻を拾って放り込んだ。
 一際強い風が吹き渡り、中庭の梢を鳴らす。それはいかにも冬の乾いた寂しげな音で、体温を攫われるような寒さを高杉はぎゅっと躰を固めてやり過ごした。

「俺も、センセーがわざわざ窓開けて吸ってるトコはじめて見たぜ。どーゆー風の吹き回しだよ」
「キレイな空気も吸っとかねぇと声しゃがれるからな」

 襲われたときに大声を出せねェ。
 煙草が消えた物足りなさを埋めるように下くちびるを指先でなぞりながら、土方は至極真面目を装った顔でサラリと云ってのける。この男のものとは思えぬ言葉に高杉は声を出さずに笑った。

「ナニ、女みてぇに悲鳴上げんの? てめぇが?」
「ああ。上の階まで響くような声で叫んで、向こうが呆気に取られてる隙に殴り飛ばしてやんだよ」

 云いながら眦をゆうるりと細め、忍び笑いする肩が揺れる。窓枠に置いた腕に体重を預け、幾分か前屈みの姿勢になっている土方の眼を高杉は覗き込んだ。その真黒な双眸からは余裕がありありと読み取れてムカツク。
 高杉は露出した隻眼の下に不愉快げな皺を刻んだ。

「…ふぅん。じゃ、実践してみろよ」

 まぁそんな声を上げさせるほどマヌケでもなければ、この男の演技に引っ掛かるほど莫迦でもないのだが。
 手のひらを添えた土方のおとがいを掬い上げ、くちびるを塞ぐ。冷えたそこを舐めて舌先を口腔に捻じ込んだ。抵抗はなく、そして反応もない。唯、すぐに厭きて離したときに触れた息だけが熱かった。

「昼休みは、入室禁止にしとけよ」

 ニヤリと深読みを促す笑みに相貌を歪め、啄むようなキスをしてから土方を解放する。踵を返して歩き出すと、唾液に濡れた口唇が冬の風に冷やされた。





 手をかけた扉は開かなかった。
 高杉は訝しげに眉間に力を込める。もう一度保健室の扉を横に開こうとするが、ガチャ、とやはり鍵に阻まれる音が鳴るだけだった。

(……―――やられた!)

 己に手抜かりがあったことを自覚して高杉は思い切り扉を蹴りつけた。硬い扉から衝撃は殆どそのまま足に跳ね返ってくる。当然だがビクともしないのが、あの男の嘲笑のように感じられて余計癪に障った。



「お望み通り、入室禁止にしといてやったぜ?」


 そう云われるのはまた後日。





Special thanks Hiyori sama !!

05.Jan




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