マンションのエントランスが自動ドアの向こうに見える。オートロックが掛かっているそのドアの手前で、設置された機器に土方は部屋番号を打ち込んで呼び出しボタンを押した。何とも気の抜ける間延びした音が鳴り、土方は心の中でカウントを開始する。
(1、2…)
 昨晩は疲れていたのに、つい遅くまで大学時代の後輩に借りた本を読んでいたものだから眠くて欠伸が洩れる。疲労は回復しきっておらず、約束さえしていなければ正直云ってこんな処に来るより家で寝ていたかった。
 そして早いテンポで5まで数え終えるとさっさと踵を返す。
 マンションを出て直ぐの道を右に折れて駅に向かった。コートのポケットに突っ込んだ手が煙草に当たる。一服吸いたくなったが歩き煙草はあまり褒められた行為ではないので、仕方なしに我慢の溜息を吐いた。土方が勤務している学校から此処はそう遠くない。唯でさえ最近は喫煙者に対する風当たりが強くて肩身の狭い思いをしているというのに、それを学校関係者に見られるのは宜しくなかった。いや、目撃されるだけなら痛くも痒くもないのだが、それによって何らかの苦言を呈されるのは御免蒙りたいのだ。同僚の誰かが、そういったことに煩そうな誰かがこの辺りに住んでいると聞いたことがあった気もする。
(確か高杉の担任で、……分かるんだか分かんねェんだかってあだ名の)
 己の根城である保健室にいつからか入り浸っている生徒の顔を思い出し、そこからその担任教諭の顔と名前も引き摺り出そうと記憶を巡らせた。顔はすぐに思い出せたが名前に難儀する。そのとき、ジーンズのポケットに捻じ込んであったケータイが着信を告げて小刻みに震えた。土方は少し面倒そうに立ち止まり、折畳式のそれを開いて相手も確かめず通話のボタンを押す。
 掛けてきた相手は分かりきっていた。土方がさっき呼び出しのインターフォンを押した家の主だ。5秒以内に応答がなかったら帰る、という宣言を実行した土方に慌てて電話してきたのだろう。
 ケータイを耳に押し当て、不意に思い出そうとしていた名前がパッと脳裏に浮かんだ。

「そうだ、ヅラだ」
『は? ヅラ?』

 意図せず零れた土方の独り言に虚を突かれたらしい通話相手の素っ頓狂な声に、何でも無いと返す。土方は少しだけ振り返り、ついさっき引き返してきたマンションの建物を振り仰いだ。規則正しく並ぶベランダには好天に誘われ、大きくその身を広げる布団や洗濯物がちらほらと見受けられる。その中で、今まさに大慌てで室内から出てきたという様子の男が一人いた。今の土方と同じように片手を耳元にやっているのは、そこに携帯電話を掴んでいるからだろう。そのまま落下しそうな勢いでベランダから身を乗り出し、下をキョロキョロを見回している。その男が土方を発見するのにそう時間はかからなかった。視線が交わるタイミングで土方は口火を切る。

「で、何の用だ。銀時」
『何の用だじゃねぇって。さっき下からチャイム鳴らしただろ? 鳴らしたよな? なのに何で即行帰んだよ!』
「てめェが直ぐに下のドア開けねぇから」
『おまっ、何処の我が儘娘だよ!! そんな生き急いでねェでゆとりを持て、ゆとりを!』

 電話口からではなく直に聞こえてきそうな声量の言葉に土方はムッと顔をしかめた。我が儘娘とは何だと腹が立つが、それを口にするだけ無駄であるような気もしたのでぐっと我慢する。あの飄々としたツラが目の前に無いというだけで随分と怒りも制御できるものらしい。
 大体、こんな処で怒鳴ったら周囲の視線を集めてしまい、自分が恥ずかしい思いをするだけだ。

「オメーの為に作るゆとりなんざねーよ」
『ヒドッ! ンなこと云ってっとそこまで迎えに行くぞ!』

 言葉の綾でなくそれを実行に移しそうな響きを銀時の口調から感じ取り、不承不承という嘆息を吐き出して土方は一歩踏み出した。銀時のほうへ。そしてキッとそちらを睨み上げ、強い口調で釘を刺しておく。

「…いい、分かった。行くからそれだけはヤメロ絶対にだ!」

 野郎に出迎えられる光景など歩き煙草の現場よりも見られたくない。





 オートロックを開錠する為の暗証番号を土方は知っている。
 頼みもしてないのに教え込まされた挙句、合い鍵まで強制的に握らされたのだ。しかし、それらを土方は一度として使ったことがなかった。
 今度は直ぐに開けられた自動ドアからエントランスを通ってエレベータに乗り込む。上昇してゆく箱の独特の感覚を全身に受け止めながら、ふと動かした手で財布に触れた。そこで小銭と一緒になって、銀時に押し付けられた合い鍵は入っている。自宅やロッカーの鍵など土方が普段使うものを束ねてあるキーホルダーに付ける気にはなれなくて、しかし家の鍵となるとそこら辺に適当に放り投げるわけにもいかず、考え倦ねて彷徨った末に落ち着いた場所だった。
 そう思い起こすと指先で撫でた財布の皮の感触が冷たい金属のそれに摩り替わりそうで手を離す。自然伏せていた目線を上げるとほぼ同時に目的の階に到着し、土方はエレベータを降りて通路を迷いなく進んだ。
 家から此処までの道程は、最早土方にとって馴染んだものとなっている。甚だ不本意なことであるにせよ、だ。それほどに幾度となく銀時の部屋を訪れようとも、頑なに暗証番号と合い鍵を使わないのは、それが土方の思う適度な距離感であるからだった。
 土方には、済し崩しにあの男と馴れ合いの関係になるつもりは露もない。
 だからいつも他人行儀にチャイムを鳴らすのだ。そうすることで、土方と銀時の間に一寸の狂いもない定規をぴたりと延べるようにして一定に保った関係を再認識する。飽く迄知人、家を訪れる客という立場を崩さない。それは己の中で定めたルールだった。

 伸ばした指。押したチャイムの奥で間抜けに響く音。それが鳴り終わるより先に、玄関で待ち受けていたとしか思えぬ早さで扉が開けられる。
 外に向かって開く戸に顔をぶつけそうになり、土方は慌てて一歩後退した。と、いつものやる気ない顔をして、それと見事に比例しただらしない服装の銀時を認める前に強く腕を引かれる。バタン、とドアの閉まる音を土方は銀時の腕の中で聞いた。

「あー、冷てェ躰」
「だったら離しやがれ!」
「中身まで冷てェし。銀サン寒くて凍えそう」

 よよとあからさま過ぎる泣き真似をして肩にくっ付く男を土方は引き摺って部屋に上がり込んだ。脱いだ靴を揃えもしないのは礼儀に反する気がしたが、コイツの家でそんなものを気にする必要も無いかと思い直す。悪いのは腰を曲げればバランスを崩して押し潰されそうなほど容赦無く体重を押し付けてくるこの男のほうだ。
 扉を抜けた居間のほうは暖房が効いていて暖かく、土方はそこで銀時を引き剥がした。暑苦しい。脱いだコートをソファに投げて、その横にどかりと座る。横向けて顎を掬い上げようとする手を叩き落し、はたかれた手を痛そうに振る銀時の怠げな顔を睨み付けた。

「まだ寒いってんだったら設定温度上げりゃイイだろ」
「いや…もう充分デス」

 ジンジンと痛んで熱をもった手の甲をさすりながら銀時は冗談にも付き合ってくれない土方のつれなさに内心涙する。仮令それがいつものことだとしても。
 抱き締めたとき本当に冷たかった躰を思い出し、熱いコーヒーでも淹れてやろうと台所に足を向ける。ミルクなし、砂糖も勿論なしでとびっきり濃く淹れたやつが土方の好み。銀時にはどうしてそんな苦いだけのものが飲めるのかさっぱり分からない。理解に苦しむ。そう云えば土方は多分、てめェの異常な甘党のほうが理解できねーよ、と云うのだろうが。
 コンロに乗せたヤカンを火にかけ、カップなどの準備をし始めた銀時を土方は横目に見た。しかし銀時がふたつ並べたマグカップの片方にインスタントコーヒーの粉を入れた後、スプーンで袋から直に掬った砂糖を何杯も放り込んでいるのを眼にしてしまい、視線を外す。それを飲むのは自分ではないと分かりつつも胸焼けがしそうだった。無意識で宥めるように胸を撫でる。

「あ、そういや貰いモンの苺大福あんだけど食う?」
「要らね。それより寝てェ」

 ガタンッ、と大きな音。それから、悲鳴。

「ぅおわっ砂糖が!!」

 ビックリしてそちらを向くと、銀時の叫びどおり砂糖が横倒しになった袋から零れて、調理台の上で雪崩を起こしていた。慌てて袋の口を上に向けたようだが一気に半減してしまっている。
 ソファの肘掛に頬杖を突き、半眼で土方は呆れ果てた溜息を吐き出した。

「何やってんだよ」
「なっ、だっ、おまっ…!」
「言葉になってねぇぞ」
「だってオメー、こっちはどうやってそういう空気に持ってこうかとか色々考えてるってのにそんな直球なのってアリ?! アリなのかよチクショー!! だったら最初からそうしたっての!」
「オイ、日本語大丈夫か?」

 ついでに頭も。
 そう続けて云おうとしたのだが、キッチンカウンターを回り込んで大股に近付いてくる銀時と眼が合って思わず口を噤んだ。直感する。ヤバイ。何だか知らないが銀時はやる気だ。ジリ、とソファの端へ後退りして銀時から距離を置こうとするがそれで逃げれる筈もない。
 そもそも、何故逃げなければならないんだと土方は己の反射に歯噛みした。しかしどうしようもなくヤバイ気がするのだ。ぞくりとする。銀時の眼の色に搦め捕られ、腰から脳髄まで甘く鋭く這い上がってくる感覚に危機感を憶えた。いつもと違う。歯止めが利かない。死ぬまで溺れる予感。
 ヤカンで沸騰した湯が悲鳴のような音を立てた。それでも衝動は止まらない。
 視線から情欲は感染する。

「ダメ。俺、今、余裕ねェから……」

 やさしくできないよ。
 熱っぽい声が耳に触れてピクリと肩が震えた。
 噛み付くように重ねたくちびるから食い尽くされていく吐息と理性。

(単にマジで眠ィだけなんだが…)

 そんなことはもうどうでもよくなってしまった。





この腕は存外に寝心地がイイ。

05.Feb




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