【 治りかけの傷 】
沖田×土方
会議が終わり、その最中も吸い続けていた煙草を灰皿に押し付け、土方は立ち上がった。 襖を引いて部屋を出て行く彼が、僅かに左足を庇いながら歩いていることに気付く者はいない。 少なくとも、土方の後を獣のように足音を立てず付いて行く青年を除いては。 螺旋と疵痕 ≪前≫ 「何で逃げなかったんですかィ」 思わず洩れた自分の声が、まるで非難するような響きを帯びていたことに沖田は驚いた。しかしそれを出すまいとする顔を、土方が見上げる。 窓からは夕陽の残照が射し込んできている。一日の終わりを告げる光だ。沖田も、程好くサボりつつ仕事をこなして自宅に帰ってきた。いつものように。違うことはといえば、土方が居るということくらいか。 沖田が土方を捕らえ、その躰を貪ったのは昨日のことだ。自由を奪い、抵抗を封じ、無理矢理快楽に突き落として貫いた。何度も、何度も、土方が意識を飛ばすまで。 そうして朝になっても昏々と眠り続ける土方の、激しく暴れたせいで擦り切れ疵付いた手首の拘束を解いてから家を出た。 そして、その行動を改めて意識したのは随分と後のことだった。ほぼ無意識にしたことだったのだとはじめて気付く。自分でも何故そんなことをしたのか判らなかった。痛々しい疵に今更心を痛めたわけでもあるまいし。 折角捕まえたのに、これでは逃げてくれと云っているようなものではないか。 散々弄ばれ、まだ軋み痛むであろう躰では一日中ロクに動くことなどできまいと予想する半面、彼の強靭な精神力ならばそれも克服できるだろうと思っている。 だから、彼が目覚めたら間違いなくこんな処を出て行って、沖田が帰ってくる頃には居ないだろうと思っていたのに。 何故彼は此処にまだ居るのだ。 「意味がねぇだろ」 グチャグチャに乱れてドロドロに汚れていた着物を脱いで、洗濯機に放り込んだままだった隊服を引っ張り出してきたのだろう。見慣れたその格好で土方は溜息のように言葉を吐いた。 少しでも楽になるようにした結果か、だらしない体勢でいる土方を沖田は無表情な眼で見下ろす。 何故、この男がまだ此処に居るのだ。……そんなふうに思うなんて、居てほしくなかったというのが、自分の本心なのか。 チガウ。違う! 捕まえたんだ。長年抱き続けた願望だった。 跪かせたかった。これはその、序章だ。 なのに、だけど、それは叶わないと、自分は知っていた…? 「それは、どういう意味ですかィ」 「逃げたところで、余計ややこしくなるだけだろうが。どうせ屯所で顔を合わすことになるんだからな。お前に真選組をヤメる理由がなくて、俺が副長をヤメる気がねェ限り」 沖田は、グッと爪が食い込んで疵を付けるほどに強く拳を握った。 知っていたんだ。この男の本意でない完全なる服従など有り得ないことくらい。 躰を疵付けたところで陵辱したところで、心が欠けることはなく歪むこともない。物理的なものは大したことではないのだ。自分が、それだけを求めているのではないように。 「副長の座をくれてやれなくて悪ィな」 本気とも冗談とも付かない、低めの声とゆったりした口調。切れ長の眼を細め、スッとくちびるの両端を吊り上げて土方は笑う。 知っていた。彼が誰かに――仮令それが自分にだったとしても――屈する筈がない。そんな土方を自分は好きになったのではない。 捻じ伏せたい、手に入れたいと願うのに、屈服した彼には興味がないのだ。 そうして思考は無限の螺旋を描いて堕ちていく。崩壊へと向けて。 判っている。自分には、痛いほど。 唯、認めたくなかった。受け入れるには残酷な矛盾を。 傍にあるなら、彼に触れる手を止めることは出来ない。だけどそれで思い知りたくなかった。 だから自分のいない間に逃げてくれれば、手に入らないのだと自分を納得させる理由ができたのに。 ……だから、か。 「ハ、ハハッ…」 余りの下らなさに込み上げる笑いを噛み殺せない。片手で顔を覆って俯き、沖田は痙攣のように途切れ途切れ笑い声を零した。 陳腐で幼稚な自分の思考も、土方の己へ向けられた執着への鈍感さも、可笑しくて仕方ない。 「これはそんな理由でやったんじゃねぇですぜ、土方さん。云ったじゃねぇですかィ……俺のもんになってくれって」 だけどそれはグルグル廻り続けるメビウスの環に巻き込まれ、決して叶わないのだと判っている。何だか熱くて痛い眼球の奥を沖田は無視した。 「それはできねェって判ってんだろ」 「判ってまさァ。それでも、」 好き過ぎてどうしようもないなんて云えない。口が裂けても死んでも云えない。 独占したいのに、出来るワケがなくて、実現したなら途端に失望する。 このジレンマの中でどうしろと云うのだ。どうすれば、良い。 「―――土方さん、帰ってくだせェ」 「自分勝手だな。此処につれてきたのはてめェだろ」 「そんなの、今頃気付いたんですかィ?」 自分勝手じゃなきゃこんなことはしない。 口許が力なく歪むのが判る。 頭のネジが何本も抜け落ちたように、今の自分が可笑しいと判る。 夕陽が赤い。赤くて、眼に痛い逆光の中に、沖田を真っ直ぐに見詰める強い眼差しがある。 その眼が、沖田を無表情に戻させた。 「帰る前にもう一回、抱かせてくだせぇよ」 屈み込んで、くちびるを寄せる。触れるだけのキスをして、ゆっくり体重をかけて圧し掛かった。 彼から嗅ぎ慣れた煙草のにおいがしないことに微かな違和感を憶えながら抱き締めると、あやすように背に腕が回される。 深く吐息する音が聞こえた。抱き締めた胸が僅かに膨らんで萎む。 「俺ァ、てめェのことが嫌いじゃねぇんだぞ」 「……それは嬉しいですねィ」 嗚呼、やっぱりこの人にとって、己の躰なんて大したものじゃないんだ。 廊下を速足に進む男の背中を追って、距離を詰める。 沖田は声を潜めて、呼んだ。 「土方さん」 「…………」 「土方さんってば、ナニ無視してくれてんですかィ」 「煩い。散れ」 「左足の、内側の踝の、疵が痛むんじゃありやせんか?」 ぴた、と土方の足が止まった。無意識に負担を減らそうとしているから、右に重心が傾いている。 頭だけを巡らせて肩越しに振り返った土方はやり場のない怒りを持て余したように顔を顰めていた。 その疵の元凶は今彼の目の前にいる沖田だ。それは明白であるのだが、何と云って詰め寄ればいいのかが分からないように、直ぐ視線を離した。途惑いや、躊躇いや、彼には似つかわしくない雰囲気が漂っている。 それを振り切るように、再び歩を進めだした土方の後をやはり沖田もついていく。 「疵、見せてくだせぇよ」 「断る」 「減るもんじゃあるまいし、構わないじゃねぇですかィ」 「見せる理由がねェ」 にべもない土方の返答にも沖田は諦めない。こんな遣り取りは今日がはじめてではないのだ。寧ろ、諦めが悪いのは土方のほうだと、沖田は自分より長身の男の深い色の髪が、歩調に合わせ微かに揺れるのを眼で捉える。 「見せてくれなきゃ今すぐこの場で土方さんの服、上から下から全部剥ぎ取りますぜ」 「できるもんならな」 「怪我人に俺が負けると思うんですかィ?」 「…………」 乱暴な動作で仕事部屋の襖を開け放った土方が中に入っていく。開いたまま、閉められなかった其処から続いて入り、沖田は後ろ手に襖を引いた。 * 後篇 * |