【 雨空見上げて 】
山崎×土方
泣いて。 あなたへの月 ≪前≫ 「オイ山崎! 大丈夫か?!」 スパンっ、と勢いの良い音に乗せて襖が全開になる。一瞬にして吹き込んできた外の冷たい空気に山崎は身震いした。羽織った綿入れの前を掻き合わせ、風の流れてくるほうに目線をやる。 其処に、まだ所々に返り血のシミを残したままの格好でやって来た近藤が立っているのを認め、山崎は照れくさそう苦笑しながら頷いた。曰く、大丈夫だと。さっきから殆ど引っ切り無しに誰かが訪れてはみんな似たような問い掛けをしてくるものだからもう返す言葉が思い付かなくて、包帯に覆われた腹を意識しつつ唯首を縦に振った。 本当に、面映い。 けれど心配されるのは悪くない気分だと山崎は発熱している頭でしみじみと感じた。怪我の痛みは薬でかなり和らげられているが熱の怠さはそうもいかない。きっと今の自分は、脳が蕩けたような締まりのない笑い方をしているに違いなかった。へらりとか、へにょりとか、そんな感じ。 マヌケな感じだなぁ、とも思うが嬉しいものは仕方無い。それを隠すほど自分は捻くれちゃいないのだ。ストレートに感情を表現できて、それを受け入れてもらえるということは案外貴重で凄いことなのだと知っている。だから、嬉しいなら笑う。 大したことがないなら良かったと近藤は朗らかな笑顔を満面に浮かべた。そうやっていつも何でも包み込んで安堵させる、陽だまりの空気を彼はもっている。良くも悪くも素直で、大きなひとだ。だからこそ今の真選組があるといっても過言ではない。この人の元でなければ集わなかった人間は多いだろう。 「何でか分からんがトシは来たがらなくってなァ。だけど、アイツも心配してると思うからとにかくゆっくり休むんだぞ」 バシバシと元気付けるように山崎の肩を叩く近藤の口から出てきた土方の名に、ハッと思い出す。 ざっくり皮膚の裂けた手のひら、腕。そこから止め処なく溢れ滴る鮮血を無感動な顔で見下ろしていた土方。彼は強く拳を握り込んで、怪我などなかったもののように平静を装おうとしていた。そしてみんな、山崎の怪我のほうにばかり気がいって、土方もちゃんとした手当てが必要なほどの疵を負っているのに気付いていない。 それは彼があまりに普段通りの、テキパキとした仕事振りだったからだ。迅速な判断と指示は的確で、事後処理に忙しく立ち回る姿はとても怪我人のそれではなかった。土方はそのように知られたくないことを巧妙に隠して人を欺く術に長けた男なのだ。加えて彼自身の出血はそれを拭うのに使われた黒い隊服と、そこここに飛び散った返り血に紛れてしまって一目には気付けない。 だからそれを知っている山崎が放っておくわけにはいかなかった。自分が云わなければ、土方は限界を超えるか総てが終わるまで治療を受けないつもりなのだ。だから、だから伝えなければと気ばかりが焦るのに、俺はもういいから副長の怪我を、というたったそれだけの言葉が、疵から生じる熱にひりつき張り付いた喉では声にできなかった。水が欲しい。云わなければならないのだ。唯一気付いている自分が。 ―――いや、自分だけではない。確認したわけではないが、沖田も確実に気付いている。そう、確信している。 だのに沖田は何も云わなかった。 土方に山崎を看てるよう云いつけられて来たと山崎が寝ている布団の横に腰を下ろしたきり、何をするでもなくじっとしている。そうして、普段のことを思えばうすら恐ろしいほどに大人しくしているのだ。土方に追い払われたとは分かっているのだろう。沖田が傍にいれば隠し果せることができないと彼が思ってのことに違いない。けれど沖田は文句も云わず黙したままだった。さして考えがあるようにも思えないのだが、一体何を思っているのだろう。山崎には計り知れない。 結局、云いたいことを云うことも水を要求することも出来ないうちに近藤は立ち去ってしまった。沖田には過去の経験から、頼み事をしてもマトモに叶えてもらえそうにないことが分かりきっていたので頼むに頼めない。水と称してエチルアルコールとか持ってこられそうだ。そんな非常に意味の無い悪戯を愉しむのが沖田総悟という人物の性格なのである。 それでも、どうして土方の怪我のことを近藤に教えなかったのかと物云いたげに、何処か非難を込めて沖田を見詰めた。その視線に気付いた彼は山崎の気持ちを正確に汲み取って、なのに、俺は案外やさしい人間なんでねィ、と理解できないことを云う。それから水を持ってくると云い残し――そこまで気付かれていたとは思ってなくて山崎は酷く驚いた――、部屋を出て行った。 山崎には沖田が理解できなくて、僅かばかり憤っていた。確かに副長の座を狙う沖田は常々土方をこの世から抹殺しようとしていたりするが、それでも怪我をしているのに見て見ぬフリをするほど冷血だとは思わなかった。何処か、心の底では沖田も土方も互いに認め合っているのだと思っていたのは山崎のとんだ思い違いだったというのだろうか。羨ましい関係だと、憧れを抱いたのは…。 それに土方も土方だ。意味なんて全然ないのに痩せ我慢して、何で隠しているんだ。何で誰にも頼らずひとりで立ち続けようとする。いちばん気を許している近藤相手にさえ、凭れかかることを良しとしない土方の心理が分からなかった。 様々な思いや感情がずっと山崎の胸の内で渦巻いていて、ムカムカと収まらない怒りで冷静になれない。 それをずっと引き摺っていたからだろう。 夜半の中庭で土方が鼻先を天に向けて佇んでいるのを見つけたとき、山崎は何も考えず草履を突っ掛けて雨の降る中に飛び出した。 真冬の雨は冷たいなんてものじゃなかった。降るというより突き刺すといったほうが適切に思える、針のような雨が降り頻っている。なのに傘も差さずに突っ立っているなんて莫迦じゃないのか。 「副長!」 呼ぶと、雨でできた極薄の膜の向こうで顎を引いて此方を見た土方の眼は、いつもの恐ろしさがなく何処か空虚が漂うものだった。その温度が低い双眸の雰囲気に呑まれ、山崎の怒りはすっと容易く鳴りを潜める。 ぱしゃん、と足元で跳ねた水が冷たい。直ぐずぶ濡れになってしまった全身に震えが走る。吐いた息は暗闇で分かりにくかったが、少しばかり白く曇っているような気がした。 寒さを振り切るように山崎はズカズカと突き進んで、土方の正面で立ち止まる。問い掛ける口調は自然、刺々しいものになった。 「こんな、雨の中で何やってんですか」 「立ってる」 「いやそういう意味じゃなくてですね!」 素っ気無く簡潔に、完璧に的外れなことを云う土方に思わず声を大きくする。それは常なら確実に半殺しの右ストレートでも飛んできそうな所業であるのに、土方は手を上げもせず無言で山崎を見据えてくるだけだった。珍しいことに今はあまり瞳孔が開いていない眼を、却って恐いものを感じながら見上げる。顔面に当たる雨粒が冷たいを通り越して痛い。 別に、云いたくないのならそのように云えばいいのに。そうされれば、山崎は問い詰めるだけの立場にないのだから、それ以上追及することができなくなるのに。この人は偶に酷く鈍い。というかあの返答は何だ。ボケか。ボケなのか? 分からない人だなぁ、と雨に濡れる頭を掻いた山崎の脳裏に、ふと思い当たるものがあって手を止めた。まさか、と思う。けれど訊かずにはいられなかった。万にひとつの可能性を語るように慎重に、それでも確信をもって、まだ少しひりつく喉から声を絞り出す。 「…自分を、責めてるんですか?」 「……ああ。山崎ごときに庇われたなんざ情けなくって泣けてくらァ。一生の汚点だな」 寒さに白くなった薄いくちびるから滔々と放たれるあんまりな言葉に山崎は、さっきまでの怒りも相俟ってカッと頭に血が昇った。 なっ、と声を発しようとしたくちびるが激昂に一瞬震える。 「何でそんな自己中なんですか! 可愛い部下に怪我させてしまって負い目を感じてるとか嘘でもしおらしいこと云ってくださいよ!! 何だよアンタ最低の上司だっ! 莫迦ァー!!」 「何で逆ギレすんだよテメェは!」 山崎の叫びで土方の表情に生気が戻った。反射のごとく瞳孔が開いて、怒鳴って山崎を殴り飛ばすときの顔になる。 山崎のクセに生意気な、とでも云いたげに土方がぐいと引っ張り上げるように胸倉を掴む。が、山崎はいつものようにたじろいだ様子を見せなかった。逃げる素振りもなく静かで揺るがない、意外なほど力の強い眼に見返されて殴る気が失せる。土方は自分からふっと視線を逸らし、舌打ちと共に山崎を突き放した。調子が狂う。それが山崎のせいだと思うと癪で堪らなかった。 土方の苦い心情を覚っているのかいないのか、山崎はその横顔を注視したまま。そして何かの宣告のように、雨音に掻き消されぬ声できっぱりと云い放った。 「アンタを庇ったのは、俺が弱かったからですよ」 「…あ?」 「俺が強ければ、アンタを庇うことなんてなかったんです」 土方の怪訝な声を無視し、山崎は自嘲に引き攣りそうな口端を意思の力で何とか真一文字に保つ。 情けないな。ホントは云うつもりなんて無かったのに。噛み締めそうになる口で細く息を吸う。 今は打ち付ける雨の凍るような冷たさよりも体内に燻る熱量のほうが勝っていた。表面は冷えきっているのに躰の芯は熱い。やっと下がりかけた熱がまた上昇しだしているのかもしれなかった。 *後篇* |