【 雨空見上げて 】
山崎×土方




 雨の音は静かだ。しかし止むことがない。
 今は此方を見ている土方は、泣き続ける空を仰ぎ何を思っていたのだろうか。雨雫に濡れ重たげな睫毛が瞬きする様を山崎はつぶさに見詰めた。
 不可解そうに眉根を寄せる土方は言葉を挟まないことで先を促してくる。
 こんなことを口にするのは云い訳みたいで、みっともないから云うまいと思ってたのに、この人を前にするとそんな意識は吹き飛ばされてしまった。
 自分を責めているのは、山崎のほうだ。







   あなたへの月 ≪後≫





 山崎は監察だから情報収集が主な役目なのだが、真選組は慢性的な人手不足だから討ち入りにも参加することがある。今日もそうだった。そこで、隠し通路から逃走を図った攘夷浪士を山崎はひとりで深追いしてしまったのだ。
 敵の隠れ家などに踏み込む時は各個撃破されるのを避ける為、数人単位で動くのが常である。だが、諜報によって建物の見取り図も脱出経路の全体図も完璧に頭に叩き込まれていた山崎はいつの間にか一緒に行動していた隊士を引き離してしまった。小回りが利き、駿足にも定評のあった山崎に付いて来れる者は案外少ない。
 山崎が、仲間と逸れたことに気付いてヤバイと思ったときには遅かった。
 腕に自信が無いわけではなかったが、多勢に無勢という言葉がまさにピッタリという風な状況におかれては流石に危機感を抱かずにはおれない。此方がひとりだということに気付いた浪士どもが逃亡を一時後回しにして向き直ってくる。包囲されないように気を払いながら何人か斬り伏せつつ、どうにか仲間のいるほうに戻ろうとするが、それは容易なことでなく次第に息が切れてきた。派手な爆音や怒号は聞こえてくるのに、それらはとても遠い場所のものであるように思えてならない。
 そんなときだ。突然に襖をぶち抜いて瀕死の深手を負った男が通路に倒れ込んできたのは。その男を踏み付け、土方が現れたのは。

「山崎!! テメー、ナニひとりで動き回ってやがんだ!」
「えっ、あ、う…! け、けど副長だってひとりじゃないですか!」

 敵を牽制しながら山崎が云い返すと、はたと気付いたように土方は肩越しに己の背後を窺った。そしてすぐさま躰を翻し、斬り下ろされた刀を刃で受けて弾き飛ばす。返す刀で相手を斬り付け、見る限り敵しかいないのを確かめて土方はムスッと顔をしかめた。

「………」
「副長も…逸れましたね?」
「煩ェ!! 付いて来ねェほうが悪ィんだよっ」
「お、横暴だなァ」
「何か云ったか山崎ィ?!!」
「そんな余裕無いで…ッす!」

 思わぬ太刀筋で閃く刃を間一髪で躱し、山崎は慌てて答えた。刀の切っ先で人体を突き刺す独特の厭な感触に、じわりと込み上げる嘔吐感を我慢する。仕事だと割り切れ、と己に命じた。けれど本当に人としての心を忘れてしまいそうで、殺めることに慣れるな、とも強く願った。それらは決して折り合いがつかず、いつも葛藤するのだった。
 そうしていると、惑う。迷って、足手纏いになる。それはあってはならないことで、それだけは赦せないことで、だから山崎はもう何も考えるなと云い聞かせた。敵を倒すのではなく仲間を護るのだと念じた。悩むのも悔やむのも後だ。土方に一撃を防がれた男の胴に白刃を走らせる。血を噴き出しながらよろりと後退ったその男に止めを刺したのは土方だった。その躊躇も無駄もない刀捌きが彼らしいと山崎は思った。
 血腥い臭いが通路に充満している。転がる死体の数は増えているのに、向かってくる敵は一向に減った気がしなかった。真選組の"鬼の副長"土方が仲間をひとり付けただけで居るというのを聞きつけ、その首を討ち取って名を揚げようという莫迦な輩が集まってきているらしい。全くもって厭なネームバリューだ。
 それでも広くない通路が幸いして一度に襲い掛かられることはなく、仲間が気付いて誰か援護がくるまで粘ろうと土方と山崎は暗黙の内に互いの意思を確認する。攘夷浪士はひとりでも多く減らしたいが、無茶して命を落とすようなヘマは御免蒙りたい。
 形式や型に拘らない、直感を重視した流れるような動きで刀を繰り出す土方の癖は知っていたからそれに合わせるようフォローに回る。
 此方がふたりだけなのを優勢と見て取って、攻撃に転じる者。逃げるのが賢明と判断して通路の奥に消えてゆく者。一口に攘夷浪士といっても様々いた。
 その後者に属する背中を視界の端に見ながら山崎は、確か土方が建物の出入口にも人員を配していたことを思い出した。それと共に躰はほぼ機械的に攻撃をいなしている。刃同士の擦れる、鋭く甲高い音が響く。じん、と手の中に衝撃が残る。取り落とさないよう刀を握る手に力を込め、薙ぎ払った。
 今はふたりだがいずれ増援がくることなど明白であるのに、此処に残っているような連中は十中八九が三下だ。だが、それゆえ愚直なまでの気勢と無駄な頑丈さで事切れるまでがしぶとく、苛立った土方の舌打ちが聞こえた。
 ちらと其方に視線をやって、山崎は眼を見開く。
 敵を叩き斬る土方の死角から、にじり寄る気配を消した影。それが、土方を狙って凶刃を振り上げる。

「―――ッ!!」

 土方さん、と叫びたかった筈だ。
 けれど喉を突き抜けたのは音にならない声だった。

 その瞬間に痛みを感じたのか感じなかったのかは、今となってはもう分からない。取り敢えずは、土方の袖を掴んで引っ張り寄せ、自分が鈍った刀の斬られるというよりは破られるような一撃を受けた。彼の身代りになったという事実だけが山崎には意味があった。
 身を挺して庇ったと云えば、それも正しいのだろう。
 だが別に、この人を護れるのなら自らの命を擲ってもいいとか、そんな莫迦なことを考えたわけじゃない。唯、完全に躱すことはできないけれど急所を外させる自信はあった。それなら、怪我をした土方を背にして戦うよりは、自分が疵を引き受けたほうが勝機があると踏んだのだ。山崎と土方の、どちらの戦力を欠くほうが痛手になるのかなど火を見るよりも明らかである。
 しかしそんな計算も、もし自分が強ければ必要ないことだったのだ。土方が疵を負っても、戦えるのが山崎だけになっても、援護がくるまで踏み堪えるだけの強さがあれば、庇わなくても良かったのだから。
 けれど自分はこの人や沖田みたく、鬼のように強くはないから。だから持ち堪える自信も確信もなくて、土方を庇うことでその役割から逃げた。
 ―――あなたを庇ったのは、俺が弱かったからだ。
 そのことを改めて意識する。庇われた己を責める土方を見て、山崎も自分を責めていた。凍える雨にか自責にか、歯の根が合わなくなる。ぎゅっとくちびるを噛み締めて山崎はそれを堪えた。
 全身濡れそぼった土方の顔色は紙のように白かった。けれど眦は少し紅くて、眼も充血したように赤くなりはじめている。扇情的な彩りのそこに、山崎がそっと手を伸ばすと土方は避けるように顔を背けた。水気を含んで重い黒髪が振られる。なだらかな首筋のラインがいやに印象的だった。吐き出される拒絶の声は硬質に。

「触んな」
「だったら、振り払ってください」

 怯まず冷静に山崎が告げれば、肩が僅かに揺れる。しかし、だらりと落ちたままの腕が持ち上げられることはなかった。どうとも云えない複雑に絡まった感情を映した眼を細め、土方は黙然としている。俯き気味で、前髪の先端から垂れた水滴が雨粒に混じって頬を伝った。
 凍れる雨にすっかり体温を奪われた土方を山崎は両手で包み込む。

「此処は冷えます。戻りましょう?」

 触れた荒れのない肌理細かな頬は冷たくて、その上を滑り落ちる水も冷たい、雨の感触だった。
 泣けばいいのに、と穏やかじゃない思いが唐突に山崎の心に湧き起こる。
 そんなことを思ったり、この人が放っておいてほしいと思っているのに気付いておきながら、何も知らない顔で近付いていく自分は、確かに沖田よりはやさしくないらしい。けれど自分は沖田と違って、弱いこの人も見たいのだった。
 だから今日の疵が残っても構わないと思う。それを見る度、斬り付けられて倒れるときの視界に映った泣きそうなアンタの表情を思い出せそうな気がする。
 あ、何かそれって悪趣味かも…。
 けれど偽りない気持ちだったりするから尚タチが悪い。
 熱を内包している躰で自分より上背のある土方を抱き締める。抱き返しはしないが、かといって抵抗もしない土方は酷く頼りないように思われた。
 雨に濡れた髪や、着物が躰に張り付いて気持ち悪い。冷たく、寒く、痛い。
 アンタはここに、何を見たのだ。
 重ねたくちびるは氷のように冷たかった。数度、啄むキスをして引き寄せて瞼や鼻先にも口唇を押し付ける。山崎の熱をもった体温に反応してひくりと震える躰を一層強く抱き締めた。

「ね、俺もまた熱がぶり返しちゃいそうですから」

 頬を舌でなぞる。やはり塩辛い味はしなかった。





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04.12.25




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