人差し指が攣りそうだと十四郎は思った。 いつもより格段に遅い歩調で、夕暮れに染まる住宅街を歩く。その隣で必死に足を動かしている子どもがいた。 十四郎の腰にも満たない背丈の、幼稚園のスモックを着た銀色の髪の男の子だ。 担任の先生には大抵死んだ目をしていると云われる彼――十四郎の弟の銀時が、今は大きな眼を爛々と輝かせて少しでも十四郎をリードしようと懸命に早歩きをしていた。その小さな紅葉の手が、十四郎の人差し指を掴んでいるものだから下に引っ張られて攣りそうなのである。 それでも手を振り解かないのは、それをすると弟が泣くからなのと自分に懐いてくれている弟のことが可愛いからだ。 大学の講義がなく早く帰ってきた日には、こうして幼稚園へ弟を迎えに行くのが習慣になっていた。朝が遅い日には幼稚園に送っていくこともある。どちらも自ら望んで買って出たわけではなく、銀時の強い要望があってのことなのだが。 そして、幼稚園から帰る際にもまた恒例になっていることがあった。 「にーちゃ、こっち! 今日はこっち行く!」 曲がり角に差し掛かったところで握った十四郎の指をくいくいと引っ張って、銀時は帰り道ではないほうの道を指差す。今日もか、と十四郎は溜息を吐きながら促されるままに角を曲がった。 銀時が知らない道を、惹かれるままに歩いていく。 その冒険に付き合うのが、十四郎が迎えに行ったときの恒例だった。 いつも違う道を歩いて色んな新発見をして、幼児の足でも二十分ほどで着く家に一時間以上かけて帰る。かなり長い散歩だ。最初こそ帰りが遅いと母が心配したものの今ではもう毎度のことだから、銀ちゃんはお兄ちゃんが大好きなのねと笑っている。 十四郎が迎えに行くと、銀時は母の送り迎えのときには大人しく乗っている自転車に乗せられるのを酷く嫌がった。だから歩いて迎えに行くことにしているのだが、嫌がる理由はこうして冒険がしたいからなのだろうと思う。子どもにとって世界は未知のもので充たされていて、好奇心をくすぐられるに違いない。 自分にもそんな頃があったのだろうかと少し感慨深くなっていると、また指をぐいぐいと引っ張られた。 視線を落とすと、銀時がむくれた顔で十四郎を見上げている。 「にーちゃ、何考えてたんだよ。おれ、いっしょうけんめい話してたのに」 「えっ、あ……悪ィ」 すっかり上の空で歩いていたらしい。慌てて謝るが、銀時はぷいっと顔を背けてしまった。俯かれてしまうと十四郎の高さからはくるくるした天パとそこに埋もれるようにある旋毛しか見えなくなる。 だから十四郎はしゃがみ込んで銀時と目線の高さを合わせると、お冠らしい銀時の顔を覗き込んだ。 「今のは俺が悪かった。なぁ、機嫌直せよ」 「…………」 「銀時?」 「……アレ」 兄から眼を逸らしたまま、銀時は道の端に設置された自販機を指差す。ぎゅっと強く指を掴む銀時の手は体温が高く、その熱がじんわりと十四郎に移ってくるようだった。 「あれがどうした?」 「ジュース、買ってくれたら許してやる」 銀時の精一杯エラぶった口調に十四郎は吹き出しそうになる。それを堪えて、分かったと頷いた。立ち上がって自販機の前までいくと、ジーパンのポケットから出した小銭でオレンジジュースを買う。プルトップを開けてから渡すと、銀時はそれを両手で受け取って缶を傾けた。 それから、十四郎にぐいっとオレンジジュースの缶を押し付けてくる。 「何だ?」 「にーちゃにもあげる」 「いや、俺はいいから好きなだけ飲めよ」 「あげる! きょうだいのさかずきだから!」 「お前、ンな単語何処で憶えてきたんだよ」 兄弟の杯って、ちゃんと意味が分かっているんだろうかと思いながらも追究するのは何となく憚られたので云わないでおいた。代わりに、ぐいぐいと押し付けられる缶ジュースを受け取り形だけと一口だけ飲む。甘ったるい味が口の中に広がって顔を顰めたくなったが、やけにキラキラした眼で弟が十四郎を見上げているのに気付いて我慢した。 「ありがとな」 「おう!」 銀時が妙に嬉しそうな顔をしている理由が十四郎にはさっぱり分からないが、取り敢えず缶を返す。それを銀時が今度は一気にごくごくと飲み干した。ぷはっ、と息をつく銀時に、そこまで喉が渇いていたのなら自分に分けてくれなくても良かったのにと十四郎は思う。けれどそこに弟のやさしさを感じて、胸があたたかくなった。 困らせられることもあるけれど、やはり弟はかわいいものだ。 「よし、じゃあそろそろ帰るか」 「えー、もうちょっとー!」 「今日はもう充分歩いただろ。あんまり遅くなると心配かけるからまた今度な」 空になった缶を棄て、また指を掴まれながら帰路に着く十四郎は知らなかった。 銀時が毎回の寄り道をデートだと思っていることも。 先ほどの行為を間接ちゅーだと思っていることも。 何ひとつ、知らなかったのだ。 07.10.30 |