父はビールが飲みたいですが家に一本もありません。 そんな遠回しなお使いメールが入ったので、大学からの帰り際コンビニに寄ると、会計の後に飴をひとつ渡された。店員がハロウィンのサービスです、と営業スマイルで云う。 そういえば今日はハロウィンかと思いながら家に帰り着けば、そこでは魔法使いがピコピコハンマーを手に駆け回っていた。 「あ! にーちゃおかえり!」 「……ただいま」 黒い画用紙で作ったのだと思われるとんがり帽子からぴょんぴょんと飛び跳ねた銀髪をはみ出させて、満面の笑みで出迎えてくれる弟の銀時に十四郎は応える。それに満足したらしい銀時は玄関をぱたぱたと通過してリビングに飛び込んで行った。 普段なら必ず十四郎に飛び付いてくるのに珍しいと思っていると、リビングのほうからたどたどしい発音で「とりっくおあとりーと!」と叫ぶ銀時と、「参ったなお菓子は持ってないぞー」と全く参ってない調子で返す父の声が聞こえてくる。どうやら弟は今日限りのハロウィン遊びを思う存分愉しんでいる最中らしい。 靴を脱いでリビングに入ると、銀時はきゃっきゃと笑いながらソファの上に転がった父をピコハンで滅多打ちにしていた。 幾らあまり痛くないもので叩いているとしても、愉しげにしているのには違いないのだが些か本気すぎやしないだろうかという力の入り具合だ。何事かあったのだろうかと思う。 ピコンピコンと叩かれまくっている父親に、十四郎は手に提げていたコンビニの袋を掲げて見せた。 「ただいま。ビール買ってきたぜ」 「お! ありがとな十四郎。ついでに晩酌付き合えー」 「はいはい」 最近父は、合法的に酒が飲めるようになった息子との晩酌にハマっているらしい。 十四郎も酒は嫌いではないので、ふたつ持ってきたグラスにビールを注いだ。そしてそれを一口呷ろうとするが、痛いほどの視線を横から感じてそちらに眼を向ける。 死んだ魚のそれにそっくりなのにくりくりした双眸が、十四郎を睨み付けていた。やたらと恨めしげなその視線に、十四郎は引き攣ったような不器用な笑みを口許にだけ浮かべる。 「にーちゃ、おれものむ」 「……牛乳でいいか?」 「や。それがいい!」 「これはダメだ」 ぷくぷくしたちっちゃな指で十四郎が持っているビールを指差す銀時に、きっぱりと云い切る。 すると銀時の顔が悔しそうにしかめられた。通常ならば胸の痛む表情だが、こればかりは銀時の為にも譲れない。 「ほら、それよりも母さんにはもうトリックオアトリートって云ったのか?」 「! まだ! 云ってくる!」 どうにか話題を逸らそうとする十四郎の言葉に、銀時はピコハンを持ち上げて台所に駆けて行った。その後ろ姿を見送り、十四郎はホッと息を吐く。 銀時は何でも大人のすることを真似してみたい年頃なのかもしれない。今度こどもびぃる探してこようかな、と十四郎は甘やかしたことを考える。 十四郎が座卓の前に座り込んでビールを飲んでいると、銀時の弾んだ声が台所からリビングまで届いた。 「とりっくおあとりーと!」 「イタズラは困っちゃうからママからはお菓子よ。銀ちゃんの為に今日はクッキー焼いたの」 「わーい! クッキーしゅきー!」 「自分たちばっかりお酒飲んでるパパとお兄ちゃんは放っておいて銀ちゃんはママとココアを飲みましょうねー」 「うん!」 和やかな会話の中に鋭い棘を含ませた母の言葉が聞こえて、十四郎はちらりとソファに座っている父親を見遣る。父は心成しか気まずげだ。 「云われてんぞ、親父」 「……ママはあれで酒好きだから。仲間外れにしたのがマズかったかな」 「残りは母さんと飲んどけよ。俺はもう飲んだし。部屋行くな」 「悪いな十四郎」 申し訳なさそうに手を合わせる父にひらりと手を振って、十四郎は二階に向かった。 自室へと引き上げてくると、学友から借りてきたノートを解読しつつ書き写す。何の暗号かと聞きたい文字の羅列と戦っていたら、ガチャリと扉の開く音が聞こえて十四郎は肩越しに振り向いた。 するとドアの隙間から、ぴょこりと黒い帽子と銀色の頭が覗く。 ついでにその小さな背中からは、精一杯隠しているつもりらしいピコピコハンマーがはみ出して見えた。さっき両親に云っていたあの決まり文句を十四郎にも云うつもりなのだろう。きっとお菓子は母に貰ったもので満足しているだろうから、自分は父と同じように叩かれ役になるべきかと考える。第一この部屋にお菓子など常備されていない。 銀時はもじもじと照れくさそうにしながら口を開いた。 「にーちゃ、あのな…」 「何だ?」 「とりっくおあとりーと!」 ここは、大人しく叩かれ役になるべきだ。 そう思っていたのに、十四郎はコンビニで貰った飴を銀時に差し出していた。 「……」 「…………」 「………………ありがと、にーちゃ」 「……………………どういたしまして」 おかしい。自分は確かにイタズラを受けるつもりだったのに。 なのに手は無意識に動いて、貰ったこともすっかり忘れていた飴玉をジーパンのポケットから取り出していた。 自分でも自分の行動が把握できない。 そして当てが外れたと銀時は口をへの字にひんまげて、それでもお菓子を貰ったからにはイタズラはできないのがルールだから渋々飴をポケットにぎゅっと押し込んだ。 こんなに不満と悔しさを滲ませた銀時の顔を見たのははじめてだと思う。先刻ビールは飲めないんだと云われたときとは比べものにならぬほどの悔恨に、幼い顔は歪んでいた。それはイタズラができなかったこと自体よりも寧ろ十四郎がお菓子を持っている可能性を考慮していなかった己の詰めの甘さを口惜しく思っているかのような表情だ。 ―――……どんなイタズラをするつもりだったのだろうか。 たとえピコハンはフェイクで他のイタズラを企んでいたとしても、幼い子どものすることだ。他愛ないものであるに違いない。 そう思うのに、どっと吹き出した嫌な汗は暫く引かなかった。 07.11.08 |