ちっちゃくてぷにぷにした紅葉の手を精一杯伸ばしてくる弟――銀時が寝ているベビーベッドを十四郎は覗き込んだ。 ふわふわでくりんくりんに跳ねたやわらかそうな銀色の髪の毛はだいぶ生えそろってきていて、まん丸に開かれたつぶらな眸に少し掛かっている。それを邪魔そうだなと思い、十四郎は指先でやさしく横に払ってやった。 すると、その指をぎゅっと掴まれる。 幼い弟の予想外の行動と、意外なほど強い赤子の握力に十四郎は驚いたが振り解くわけにはいかず手から力を抜いた。指が長く骨ばった十四郎の手を、それ自体がエネルギーの塊であるかのように熱い赤ん坊の手がむぎゅむぎゅと触りまくる。指の股や手のひらのやわらかさを残した部分を、撫でるように触られて少しくすぐったかった。それでも堪えて十四郎がされるがままになっていると、銀時は人差し指の根元をきゅっと両手で掴む。穢れを知らぬ清んだ双眸が、ちらりと十四郎を見上げた気がしたのは果たして気のせいだっただろうか。 銀時は、まだ歯も生えていない口をぱっくりと開けると十四郎の指を咥えた。 手のひら以上にやわらかい感触が関節を擦って、指の腹をぬめった舌が這う。ちゅ、と濡れた音が密やかに洩れた。そのまま、溢れるものを求めるように先端がきつく吸われる。 その光景から眼を逸らした十四郎は、ふ、と息を吸った。 「母さん! 銀時が腹減ってるみてェ!」 自分の指を母の乳か哺乳瓶とでも勘違いしたのだろうと判断した十四郎が階下にいる義母に向けて声を張り上げると、すぐにミルク持っていくわ、と返事が返ってくる。それを聞いて十四郎はミルクが出る筈もないのに熱心に指を吸い続けている弟に視線を戻した。 「お前なぁ、ンな吸っても腹は膨らまねぇぞ?」 そう呆れた風に云うが、まだ一歳にも満たない赤ん坊に通じるわけもない。ためしに指を引っ込めてみようとしたものの、銀時は頑として十四郎の指を手放さなかった。凄まじい執念だ。余程空腹なのだろう。 そのとき、ガチャリと子ども部屋の扉が開く音が聞こえて十四郎は振り向いた。 ミルクを準備してきたにしてはいやに早いなと思うが、部屋に入ってきた人物を見て納得する。そこにいるのは義母ではなく父だったのである。 父は四十路も超えてから生まれた子どもがかわいくて仕方ないらしく、子煩悩というより最早単なる親莫迦になりつつあった。その割に、銀時にはその愛情が伝わっていないようでしょっちゅうそっぽを向かれたり抱っこを嫌がられたりしているが。 その父が隣で立ち止まり、屈み込んでいる十四郎を妙にいい笑顔で見下ろした。 「十四郎、話は聞いた。後はパパに任せろ」 「……何も持ってねぇみてぇだけど?」 「大丈夫だから。ほら銀時をこっちに」 そう云って赤ん坊を抱く形で腕を差し伸べられ、十四郎は多少訝しいものを感じながらも吸われていた指を引き抜いて銀時をベビーベッドから抱き上げると父に渡す。その際銀時に服の袖をむぎゅっと掴まれたが、いい年した長男まで父親にくっ付いているのは気味が悪いのでそっと引き剥がした。 そんな十四郎を、銀時は一瞬悲しそうな眼で見たが、すぐにふいっと顔を父に向ける。たまには父親に抱っこされるのもいいだろうと十四郎はホッと息を吐いた。 「お、何だどうした銀時ー。何か物凄い眼でパパのこと睨んでないかー? ああ、分かった分かった。腹が減ってるんだったな。よーし、じゃあパパの乳を吸いなさい!」 「阿呆かァァァァァアアアアアア!!!!!!」 「何を云うんだ十四郎! パパは真け……ぎゃおぉぉう!!!」 莫迦らしいにも程がある発言に怒鳴った十四郎の目の前で、衝撃事件は起こった。 銀時が愛らしいぷにぷにの指をぴっちりと伸ばしてそろえると、それを両手同時に父の両眼へ突き出したのである。寸分の狂いもない、見事な目潰しであった。 「眼が! 眼がぁぁぁぁぁあああああ!!」 まさか生後間もない息子からそんな敵意剥き出しの仕打ちを受けるとは思ってもみなかった父はその攻撃をまともに食らい、仰け反る。 その拍子に、銀時の小さな躰が宙に投げ出された。 「ッ、危ねェ!」 十四郎は叫び、咄嗟に腕を伸ばす。 その手に触れた重みを思い切り引き寄せて胸に抱きこんだ。 反射的に瞑った瞼をおそるおそる開けて腕の中にある塊を見下ろすと、何が起こったのか分からなかったらしくきょとんとした丸い眸が十四郎を見て、それから堰を切ったようにぶわりと涙を溢れさせる。それでもとりあえずは無事そうな弟の姿にドッと肩の力が抜けた十四郎はそのまま床にへたり込んだ。 心臓がまだバクバクと激しく鳴っている。はぁぁ、と深く息を吐いて鼓動を落ち着け、ぎゅっとしがみ付く銀時の背中を叩いて宥めつつ十四郎は両手で眼を覆っている父親を睨め付けた。 「親父! 危ねぇだろーが何すんだ!!」 「眼がぁぁぁぁぁあああああああっ」 非難するつもりで十四郎は声を荒げたが、尋常じゃないくらい痛がっている父の姿にそれ以上言葉を続けられなかった。 子どもだからこその残虐性というか、手加減のなさだったのだろうかと、膝からくずおれ天上の神に祈るようなポーズで眼を覆い痛がっている父を見てほんの少しばかり同情する。阿呆なことをした報いだとも、思うけれども。 悲鳴やら怒声やら泣き声やらに何事かと駆けつけた母は、十四郎が事のあらましを伝えると濡れタオルを持ってくると云って再び部屋を出て行った。 その頃になって漸く痛みが引きはじめたのか、父は涙を流しながら真っ赤になった眼から手を離す。その様は見ているだけでも痛かった。 「親父、暫く銀時に触るの禁止」 「えー!」 「えー、じゃねぇよ。反省しろ」 銀時が危ねェ目に遭ったんだからな、と十四郎はまだ服にしがみ付いている弟の丸まった背中を撫でてやる。 その陰で、乳児がニタァと口の端を歪めたのが父には見えた気がした。 ―――十四郎、パパはどうやら眼を傷めて幻覚が見えるようになってしまったらしいよ。 眦に溜まった涙が、ほろりと流れ落ちた。 その後。 「遅くなってゴメンねー、銀ちゃん。もう、パパが下らないことするから。はい、ミルクよ」 ぷいっ。 「あら? 騒ぎでお腹空いたのどっかいっちゃった? ミルクいらないの?」 ぷいっ。 「……お前、じゃあ何であんな熱心に俺の指吸ってたんだよ」 母が差し出す哺乳瓶から頑なに顔を背ける弟に尚も抱きつかれながら、十四郎は溜息を零した。 07.11.12 |