山崎×土方/No.1




 心から信じるものは唯ひとつだけでいい。
 捧げる命はひとつしかないのだから。







   殉教者の心臓 ≪前≫





 今日は運が良いらしい。
 尋ね人の姿を求めて屯所内を駆け回っていたときに、たまたま見つけた梯子。それは建物の壁に立て掛けられ、屋根まで伸びていた。
 一応見上げてみても壁と軒と夕焼け空以外何も見えなかったが、何と無く直感する。尋ね人――副長・土方は十中八九、この上だ。
 いつもの仕事部屋にいなくて、さっき出くわした沖田に行方を訊いても珍しく「知らない」と――偶に知っているのに教えてくれなかったりするのだが、今日は本当に言葉のとおりらしい――云われた。
 今日中に報告を纏めて提出することになっていたからまだ屯所にいる筈なのに、目敏い沖田も居場所を知らないなんて何処を探せば良いんだろうと途方に暮れかけていたところだったのだ。
 今日はツイてる、と山崎は胸中で呟く。
 足を掛けた梯子がギシ、と軋む音を発した。下で支えてくれてる人はいないから、慎重に一段ずつ梯子を上がっていく。
 首を伸ばして屋根の上を先ず窺うと、案の定探し求めていた後姿が其処にあった。均整のとれた肢体を惹き立てる、背筋を伸ばした綺麗な姿勢だ。
 橙の太陽で染まった空気に紫煙がたなびいているのも見える。
 その光景は一枚の絵画のようで、壊してはならないと山崎は極力音を立てないよう気をつけながらよじ登って瓦に足をついた。知らない間に詰めていた息をホッと吐く。

「山崎か」
「ぅあっ、はい!」

 気付かれていないと思っていたのに此方を見もせず云い当てられ、返事する声が引っ繰り返った。ビビりまくって直立、気をつけの体勢で固まる。強要されたわけではないのだが、何と無くこの人の前では姿勢を正してしまうのだ。
 煙草を銜えた土方が横目に山崎を見たのを確認して、口を開く。

「報告書、副長の机の上に置いてあります」
「分かった。今日はもう帰って良いぞ」
「はい」

 簡潔に答えて頷いたが、山崎はその場を去らなかった。山型の屋根の天辺に毅然として佇んでいる土方を見上げる。
 屋根に立っていると空が近くなったような気がして、横から真っ直ぐに射してくる夕陽に少し汗が滲んだ。風は生温くてちっとも有り難くない。
 微風に髪を揺らしている――どうやら猫っ毛らしい――土方は煙草を口から手に持ち替え、訝しげにまた山崎に目を向けた。

「帰らねぇのか?」
「いえ、その…副長はこんな処で何をしてんのかなぁって思って」

 どんな些細な処にあるか分からない土方の怒りの琴線に触れないよう顔色を窺いながら、言葉を選ぶ。
 土方は云われてからはじめて理由を考えるように思案顔になった。長い指に挟んだ煙草を吸って、不機嫌とは違う縦皺が眉間に寄る。吐き出された煙はすぐ夕暮れの空に混ざって消えた。

「下にいると総悟や他の奴らがウザくてな」
「だからって何もこんな処にいなくても。怖くないんですか?」
「お前、高所恐怖症か?」

 情けない、と明らかに土方の顔が云っているから、慌てて首を振る。視界の端に沈みかけで半円の太陽がちらついた。

「違います!」
「だったら、何でだ?」
「え…何で、って……その」

 思いも掛けないことを訊かれて、山崎は咄嗟に答えられなかった。
 高いから、じゃない。例えばこの屋根よりもずっと高いビルの最上階に立っていたとしても怖いとは思わない。
 だったら理由はなんだ?
 回転が遅い自分の思考を呪いつつ、あー、とか、うー、とか言葉に詰まっていると土方の片眉がピクリと跳ね上がった。
 マズイ、うだうだしてるのが嫌いなんだ。この人は。

「あ、そうだ。ほら、もし落ちたら大怪我したり、下手したら死んじゃうじゃないですか」

 ピン、と閃いたことが声に変換される前に消えてしまわないように、山崎は意味もなく手を動かしながら早口に捲くし立てた。
 山崎よりも高い位置に立つ土方は片手を腰に当てて、今の言葉を吟味するように首を傾げる。薄く開いた彼の口から発された声音は珍しくも不思議がっているものだった。

「てめェは死ぬのが怖いのか」
「そんなの当然じゃないですか!」

 反射的な肯定は悲鳴のように大きく響いた。
 驚いた鳥が近くの木から慌ただしく飛び立つ。その羽音が遠ざかった後には、山崎には如何ともしがたい沈黙が降りた。
 瞬間的に昂ぶった感情が冷えていくと、気まずさを感じずにはいられない。土方の煙草から伸びる紫煙の行方を辿ることで彼から眼を逸らした。
 夕陽は着実に山の向こうへ沈もうとしている。
 世界は一層、赤みを増して総てのものをあたたかく見せる。
 生きた凶器のような土方の雰囲気も、今は僅かに和らいでいると思えるのは自分の欲目だろうかと、山崎は無意識に視線を彼に戻して思った。
 瓦を踏んで、緩やかな屋根の傾斜を登っていく。間合いの手前辺りで、山崎の足を止めるように土方が軽く俯いていた顔を上げた。

「何で」
「え?」
「だから、何で怖いんだ?」

 聞き返されたことに苛立ちを感じている様子で土方はゆっくりと発音し、煙草のフィルターを噛んだ。自分たちの距離は、片足を踏み出せば胸倉を掴むこともできる近さだ。
 それを敏感に察知した山崎は、また頭をフル回転させ、いっそ空回りしそうなのを押さえ込んで考える。
 考えながら、ちょっと哀しくってちょっと後悔した。
 今日はツイてると思ったことを訂正する。さっさと帰っておけば良かった。
 さっきから何でかこんなんばっかりだ。
 禅問答をしてるみたいな心境になる。土方はこんな遣り取りが好きな人だっただろうか。違う気がするが、現実にはこうなので仕方ない。自分の勝手なイメージで土方を変えることはできないのだ。
 それよりも、問いの応えだ。土方が痺れを切らすまでに急いで考えなければならないのに、いくら考えても結論を導き出せる糸口すら見付からない。
 何で死ぬのが怖いかって、だって、死んじゃうんだろ。怖いに違いないじゃないか。死ぬんだから。何も考えられなくなって、何もなくなって。自分が、なくなるなんて。
 そんなの、怖いじゃないか。
 堂々巡りをする纏まらない思考を持て余していると、土方は云った。

「お前、死んだことあんのか?」





* 後篇 *
04.07.10




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