山崎×土方/No.1




「お前、死んだことあんのか?」






   殉教者の心臓 ≪後≫





 明日の天気を話すような気軽さで云った土方を、ぎょっとして見上げた。動転のあまり呼吸に失敗して、ヒュ、と引き攣るように喉から掠れた音が洩れる。
 それでも懸命に息を大きく吸って、山崎は叫んだ。

「っな、に云ってんですか!!? ないですよ、ないに決まってるじゃないですか! じゃなきゃ此処にいる俺は幽霊ってことになるんですよ?!」
「だったら、知らないんじゃねぇか。死ぬってことを」
「知ってます! 心臓が止まって、躰が動かなくなって、冷たくなって――」
「そういうんじゃねーよ。てめェで経験もしてねぇのに分かるわけねぇだろっつってんだよ。経験者の死人から話聞けるわけでもねぇし」
「―――そりゃ、そうですけど」

 そんなの無茶な理屈だと思ったけれど、反論できる言葉が見付けられなかったのも事実で、山崎は足元の影に目を落とした。
 自分のと、土方の影が黒々と長く、不安の象徴のように屋根を這っている。
 弱気になるまいと山崎はキツク拳を握って自分を戒めた。なのにそれを嘲笑うように風向きが変わって、土方の吐いた紫煙が流れてきて苦しい。

「分かってもいねぇもんが何で怖い」

 追い討ちをかける土方の口の動きを上目で窺った。彼の呆れた口調は、聞き慣れた怒鳴り声よりもこたえるものがある。
 山崎は下唇を噛んだ。
 理由なんかあるわけないじゃないか。理性じゃなく本能で死を恐れているのだから。
 それは自明の理、自然の摂理なんだから、考えたこともない。考える気も、ない。
 死は生者の踏み入ってはならない領域なのだ。それを取り巻く恐れだけが明確で、誰も知らない。

「分かんないから、怖いんじゃないですか?」

 得体の知れないものを人は怖がる。だから例えば神などを畏怖したりするのではないか。

「つまんねぇ奴だな、お前」
「どうせ、気の利いたことなんて云えませんよ」

 薄ら笑いを浮かべる土方からそっぽを向いた山崎は、不貞腐れたみたいに云った。
 土方はだいぶ短くなった煙草を抓んでいる手をヒラヒラ振る。そういう意味じゃない、という仕草らしい。察しの悪い相手にいちいち云うのがもう嫌になったのだろう。

「―――俺は知りたいぜ。知らねぇもんがあるって分かったら、それが何であったとしても知りたくなる。だが、そうだな、お前みたいな奴のほうが安全な生き方ができるのかもしれねぇ」

 独り言のように呟いた土方は、横を向いて屋根の反対側の斜面に目を遣った。
 水平に腕を伸ばし、指先から煙草を放す。
 自由落下に任せ、細い尾を引いて落ちていくそれを見送るような土方の後頭部しか山崎には見えない。だから彼がどんな表情をしていたのか分からなかった。
 そして、言葉の真意も掴めなかった。疑問符を飛ばす山崎に気付いたように彼は此方を向く。


「好奇心は身を滅ぼすって云うだろ」


 そう云ったくちびるが緩やかな弧を描く。眼を細めた彼の表情は笑みと呼ぶにはあまりに酷薄で、心臓を冷たい手で握られたような悪寒が走った。
 それは、上層部の事情も下位の実情も否応なしに知りうる立場にいるこの男には、骨身に沁みていることなのだろう。
 そして監察方である山崎に警告している。好奇心に負けて深追いするなと。
 喉に厭な渇きを憶えて、ゴクリと唾を飲んだ。
 錯覚だと分かりつつも、汗がひいて躰が冷える心地がする。
 山崎は土方から眼を離せなかった。彼があまりにこの場にそぐわないから、一瞬でも眼を離せば幻と消えてしまいそうで。
 麻痺したように暑さが虚無的なものに変わった。
 ぬるんだ空気は停滞して木の葉一枚揺らさない。絶えず騒がしい筈の隊士の声も耳に入ってこず、欠けた太陽は白々しかった。
 総て、そのようにこの人が世界を作り変えてしまった。
 土方は山崎にとって確実にそれだけの影響力を持つ存在だ。
 ぎゅっと竦み上がる心臓を山崎は服の上から押さえた。
 土方の顔を、瞬きひとつ見落とすまいとするように見詰める。
 死を恐れない者は、きっとこんな顔をするのだろうと思った。
 総てを捧げた殉教者のような。
 死に急ぐように刹那的な。
 そんな、一心な顔。
 地面に縫い止められたように動けない山崎に、話は終わりだとばかりに土方は背を向けた。そして梯子をかけてあるのとは反対の斜面に降りていく。
 棄てた煙草の後を追うように。頼り無く落ちていった、ものを。落ちていった――

「っ副長!」

 脳裏を駆けた厭な想像を振り払うように動かない足を叱咤して、大きく声を荒げて一歩踏み出す。面倒くさそうに振り向いた土方の腕を掴んだ。

「あ」

 そして、躓いた。
 山崎は棟に足を引っ掛けてしまい、屋根の反対側へ顔面から派手に転んだ。躰を打ちつけた痛みに呻いて、閉じてしまった瞼を押し上げ。
 死を覚悟した。

「山崎の分際で俺を押し倒すたァ、イイ度胸じゃねェか…」
「ヒィっ! すんません、すんません!!」

 完全に据わりきった土方の双眸に震え上がって、山崎は何度も繰り返し頭を下げて謝り続ける。もし此処で殴られようものなら、うっかり屋根から落ちそうで本格的に生命の危険を感じずにはいられない。
 泣きそうで、今すぐにでも逃げ出したい気持ちになるけれど、殴られても蹴落とされても土方に云いたいことがあった。これだけは、伝えなければならない。

「ホントにすみません!! けど、俺、確かに死ぬのがどんなのかなんて知らないですけど、だけどっ、俺…副長には死んでほしくないです!」

 咽びそうになりながら、山崎は必死に喉から声を搾り出して叫んだ。
 肘を突いて上半身を起こした土方の不可解そうな顔が、縋るように真摯な山崎の眼に映る。
 土方は山崎のセリフの真意と原因を考えて。

「……ククッ」
「何で笑うんすか!」
「お前、なにマジになってんだよ」
「だ、だって今にも飛び降りそうな感じで…!」
「俺はンな下らねェ好奇心で死ぬ気はねーよ。それよりとっとと離れろ。斬られてェのか」
「たくないですッ! 斬られたくないです!」

 大声で主張しつつ、凶悪な眼光で低く恫喝する土方から山崎は慌てて飛び退いた。そしてきっちりと正座。斜めになってる屋根の上だから凄く大変だけど、それでも命令を待つ犬のように正座で静止した。
 土方はガシガシと乱暴に己の髪を掻き回し、溜息を吐く。

「第一、俺の命は真選組と近藤さ――ッ?!」

 衝動だった。
 聞きたくないことを土方が云いそうな気がして、頭に血が上った。
 今、此処で、死んでほしくないと云っているのは山崎なのに、それ以外のものを想うなんて。それを平然と口にするなんて。

 ―――アンタが、悪いんだ。

 肩を掴んで引き寄せた土方のくちびるにキスをして、少し荒れたその感触に酔い痴れるように舌を這わせてから離す。
 予測の範疇外の事態に抗う余裕もなかったらしい土方は眼を見開いて茫然としていた。その唾液に濡れたくちびるが夕陽でより紅く見えて、ゾクリとする。
 こんなことして、自分は切腹だろうか。けれどどうせ死ぬのなら、土方に斬り殺されたい。
 死ぬのは怖い。けれどそれは、自分が死ぬことより、土方が死ぬことのほうが怖いということだ。
 瞬きをして、まだ口吻けられたことを受け止めきれない様子で土方はくちびるを拭う。
 その彼の服を取り縋るように掴んで、胸に顔を押し付けた。

 心臓の音が聞こえる。





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04.07.10




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