沖田×土方/No.2





 てふてふ
   ひらひら

 俺の手の中に 堕ちてきた







     蝶の翅 ≪後≫





 水の溜まった靴を脱いで、ぼたぼたと全身から水滴を滴らせたまま家に上がり込んで良いものか土方は一瞬躊躇した。が、元はと云えば総ての元凶はこの家の主にあることを思い出し、遠慮無く板張りの床を踏んだ。

「土方さん、タオルはそこにあるんで躰拭いてくだせェ。俺は替えの服を取ってきまさァ」
「おい、お前の服なんざ小さくて着れねぇぞ」
「いや、だいぶ前に土方さんトコからパクってきた服が…」
「ちょっと待て、コラ!! なに人の服盗ってんだよ!」

 怒鳴るが、沖田はそんなものに耳を傾けず奥の部屋に入っていってしまった。
 腹立たしげに奥歯をギリと噛み締めた土方は、その力を抜いて諦念を多分に含んだ溜息を吐く。煙草を恋しく思いながら沖田が指差した洗面所に入ってタオルを探した。
 直ぐ見付かったそれで頭髪の水分を大雑把に拭い、躰にくっ付いて脱ぎにくい服に手をかける。
 ベストとシャツを勝手に洗濯機に放り込んで、ズボンも蹴り落とすように足を抜いて同じく投げ込む。既に外してあったスカーフや脱いだ靴下も突っ込んでから洗濯機を作動させ、湿っぽい躰を適当に拭いていると廊下から軽やかな足音が近付いてきた。
 ひょこっと顔を覗かせた沖田は、確かに見覚えのある――そして、そう云えば最近自宅の箪笥で見かけていなかった――着物を持っている。

「あ、イイ眺め」

 愉しげにわけの分からないことを云う沖田に、土方は不可解だと眉根を寄せた。やたらあからさまに視線を浴びせられ、居心地悪く思いながらも渡された着物に袖を通す。
 壁に凭れた沖田は顎に手を添えて、検分するように土方の頭から爪先までを見ていた。何か文句でもあるのか、と土方もその視線と真っ向から向き合うように睨め付ける。

「茶でも飲みますかィ?」
「……そうだな」

 視線の意味をまるっきり取り違えた沖田の呑気な声音に怒気を挫かれ、土方はガックリと肩を落とした。
 洗濯機の作動音が響いている。乾燥まで終わらせるのにまだ数十分は掛かるだろう。



「この間、蝶々を見たんでさァ」

 淹れたての熱い茶を平然と飲む沖田の話は唐突だった。しかし常に自分のペースで生きている彼には珍しくもないことなので、土方は唯適当に相槌を打つ。実は猫舌なので、なかなか湯呑みに手をつけることもできないのだ。

「それが真っ黒のキレイな蝶々で、俺は捕まえようと思って追っ掛けたんでさァ」

 けれど、ひらひらと、それは逃げてった。
 優美な模様の翅を揺らして。
 ひらひら ひらひら
 人を誘惑して。
 宙を彷徨うように、けれどしっかりと羽ばたいて。
 それは、手の届かない空まで飛んでった。

「それが悔しくって、けど悔しがってるだけじゃ駄目だってんで俺は考えたんですぜ」
「? 何をだ」

 ちびちびと茶を啜っていた土方が訊くと、沖田は口許を笑みにした。
 それは、彼が偶に覗かせる純粋な愉悦の表情だ。
 子どもが蟻の行列を踏み潰すような、無邪気さと残酷さを匂わせた真っ白なそれ。

「蝶々の捕まえ方でさァ」

 それは翅を毟ってしまうことだとでも云いそうな雰囲気に、土方は顔をしかめた。
 巧く表現できないが、首筋の産毛をそろりと撫でられるような、そんな薄ら寒いものを感じる。

「土方さん、知ってますかィ。蝶々の翅には鱗粉ってのが付いてるんですぜ。で、もしそれが剥げ落ちて、水に濡れちまうと蝶々は飛べなくなっちまうんでさァ」

 淡々と、或いは全く興味なさそうとも思える口調で沖田は空になった湯呑みを手に立ち上がった。
 のったりとした歩みで卓を回り込んで土方の横を通る。台所でお代わりでも淹れるつもりらしい。


「だから、次のチャンスには水ン中に突き落としてやろうって、俺は決めたんですぜ」


 その声が、耳殻の裏にやわらかな感触が触れるのと同時に響いてきて、土方は息を呑んだ。
 首筋に、衝撃。
 この男が殺気も放たず、日常生活の行為の一環かのように人が斬れるということを思い出す。

「土方さんは、〜〜のようでさァ」

 力の入らない躰は畳に倒れ臥して、混濁していく意識は正常に音を拾えず、沖田の口の動きだけが無声映画のように見えた。

「そ…ぉご、てめぇ……」

 途切れそうになる意識を必死に繋ぎ止める為に、詰まりそうな喉にムリヤリ酸素を通して声を絞り出す。
 低くうめいた土方に向かって、沖田は愉しくて仕方ないとばかりに笑んだ。
 抵抗すればするほど、捻じ伏せ甲斐があるとでも云いたげな、加虐的で残忍な子どもの笑い方。
 暗くなる視界と、遠くなっていく世界との接点の中で、土方は最後通牒の声を聞いた。


「土方さんは、もう飛べやせんね」



 だってそうなるように、水でずぶ濡れにしてやった。
 自分は、自分に見向きもしない蝶々が他の花に惹かれてゆくのを、指を銜えて見ているだけの愚か者じゃない。無欲者じゃない。
 蝶々の倖せなんか、自由なんか知らない。
 自分が倖せじゃないのにそんなの考えられない。
 此方に見向きもしないのなら、他の選択肢を捻り潰してやるしかないんだ。
 何も見ないように。
 何にも惹かれないように。
 何処へも行かないように。
 何もなくなって、そうして自分に気付けば良いんだ。
 そうすればきっと蝶々は自分を愛してくれる。
 縛りくくり。束縛して。
 それが自分の愛だから。



 小さな虫籠の中で、俺の愛でいっぱいになってしまえばいい。



「掴まえましたぜ、土方さん」



 俺のキレイな蝶々を。





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04.07.13




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