銀八先生×土方/No.1
身を委ねると、たちまち攫われそうな…。 滅びの風 ≪前≫ 「あ、不良行為はっけーん」 明らかにやる気がない、間延びした声に土方は舌打ちした。 指に挟んでいた煙草を携帯灰皿に押し込もうとしたが、今更隠したところで云い逃れはできないだろうと思い、開き直ってそのまま口に咥える。 窓の桟に腕を乗せたまま、外から室内の扉のほうへ視線を転じる。其処には此方を子どもっぽく指差している担任の姿があった。 最早付けている意味を感じられない程にだらしなく緩められたネクタイも、明らかにアイロンも掛けられていない洗い晒しの白衣も、眼鏡のずり下がった常時眠たそうな顔も、とても教師には見えない巫山戯た男である。 その男は扉を閉め、何故か錠まで下ろしてから土方に歩み寄ってくる。引き摺るような便所ゲタの音が耳に障った。 「いいのかなー、生徒会副会長が煙草なんか吸っちゃって」 「任期が終わったんで今はもう違います」 厭味ったらしく『副会長』を強調する教師に土方は冷たく云い返す。 土方は確かに副会長を務めていたがそれは二年次のことで、進級して少し経ってから新たな生徒会役員が決定すると共に任を降りた。もともと進んで立候補したわけではなかったから肩の荷が下りて清々したと云える。 土方の性格からして、あんな面倒な役職に就こうなどと思い立つわけがない。それもこれも悪気なく後押ししてきたあの人のせいで、それを断れなかった自分のせいだった。 「『トシは人を纏めるのが得意だから生徒会に立候補したらどうだ?』だっけ?」 「………どうしてそれを知ってんですか」 「んー、本人に聞いた」 そんな怖い眼で睨むなよ、とだらけた声音で云って男は口を三日月に歪める。 躰を反転させて向かい合う土方に手が届くまで近付いて立ち止まった。開け放った窓から吹き込んだ風を孕んで白衣の裾が翻る。それは捉え処のないこの男そのもののようで、土方は厭な気分になった。 男が口にした言葉を近藤に云われたのが切っ掛けだったのは否定しようもない。生徒会が実際に生徒を纏め上げるわけではないと突っ込んでやりたかったが、妙に期待のこもった顔をするものだから、それに応えてやりたいと思ってしまった。 だけどもガラじゃないし、元からの仏頂面で選ばれることもないだろうと楽観していたのが甘かった。副会長に立候補したのが一人しかいなかったから信任投票で実にアッサリと決まってしまったのである。 その辺りの経緯もこの教師は全部知っているのだろう。本当に、厭な男だ。 「しかしイイ処見付けたもんだな。今までバレなかったのも納得」 男は普段と変わらぬ調子でのんびり呟き、半分瞼が落ちかけた眼で窓の外を見遣る。高台の上に建つ校舎のいちばん上にあるこの部屋からは、四方に広い空と遥か遠くの景色までが見晴らせた。文句なしに見事な景観だ。遠方の山は滲むような秋に色付いていた。 此処は生徒会室である。 一見して三階建てと思われている校舎の、屋上に出る階段を上った処にこの部屋はあった。外から見ると、一応はこの一室だけが屋上に飛び出した形で見えるのだが、そんな処にあるが故に生徒会室が何処にあるのか知らない生徒も多いという。屋上は許可がなければ立ち入り禁止だから、特別教室棟の最上階から更に上へ向かう階段を気に掛ける者も少ないのだろう。 一般の生徒にはほぼ縁がなく、昼休みに訪れる者もそうそういないこの部屋は、土方には絶好の喫煙場所だった。退任してからもこっそりと足を運ぶほどに。 部屋の外を通る者はいないと云って良いし、窓を全開にして煙草を吸っても外から見られる心配がない。そして実際、見咎められたことはなかったのだ。―――今の今までは。 どれだけ無気力でも不真面目でも最低でも、目の前に立っている男は教師である。 停学だろうか、と予測が脳裏を掠めた。それでなくとも、何らかの処分が下るのは確実だと思える。 近藤は怒るだろうか。教師よりも親よりも、彼の反応がいちばん自分に影響を与えるだろうし、いちばん気懸かりだった。 何で見付かってしまったんだろう。迂闊というより不運だったのだが、悔やまずにはいられない。 何でこんな処に来るんだ。用事なんて無いだろう。無い筈だ。あったとしても、昼休みに仕事をするような奴じゃない。 く、と土方は煙草のフィルターを噛んだ。苦い味が舌に広がる。これがなければきっと八つ当たりのように喚き散らしていただろう。 忌々しい担任教師から眼を逸らして、窓の外の心を宥めてくれる風景を求める。それでも声は苛立っていた。 「…先生は、何しに来たんですか?」 「俺? 俺はねェ、ちょっと洗剤取りに」 「洗剤?」 物凄く訝しげに眉根を寄せた土方に、白衣のポケットに手を突っ込んだ教師は肯定を示して首を縦に振る。この男がわざと此方の気を引くようなところで言葉を切ったのだと気付いたのは、珍しく煙草を挟んでいないくちびるが微かに弧を描いたからだった。 「急にやりたくなったからさァ、四時間目の授業は屋上でシャボン玉大会にしたんだよ。そん時、此処でシャボン玉液作るのに持ってきた洗剤を忘れちまったから」 辞めてしまえ、こんなぐうたらダメ教師。 もう呆れるしかなくて、脱力して言葉が声にならない。 こんな奴に見付かったが為に近藤を落胆させるのかと思うと、自分の不覚を改めて怨みたくなった。 それでなくてもこの男に保健室で押し倒され、キスされて、それ以上の行為にまで及ばれそうになったのは、まだそう遠い日のことではない。屈辱だった。まさか男が同性の教師にそんな性的嫌がらせを受けたなどと訴えるのは土方のプライドが許さず、あのことは胸の内に沈めたまま、できることなら思い出したくなかった。 けれどもこうして二人きりになると、否応なしに浮かんでくる情景がある。抱かれた胸に染み付いていた、キツイ煙草のにおいに感じた眩暈まで甦ってくる。居心地が悪い。 土方はこんなにも意識してしまっているのに、男のほうはといえばいつもと変わらず、相変わらず柳のようにのらりくらりとした態度を崩さないのだから、余計に居た堪れなさは増して。悔しくて、莫迦みたいで、嫌いだ。 だから早く離れたい。話を終わらせたい。なのに気を抜けば、何をしに来たのかなどと、自分には関係無いしどうでもいい筈の、余計なことを訊いてしまう。会話が長引くほどにどんどん落ち着かなくなると、分かっているのに。 解消したい矛盾。方法は簡単だ。総て断ち切って終わらせて忘れればいい。 「処分の内容はいつ聞きに行けばいいですか?」 不良行為、と教師は最初に云ったのに、吸い続けていても何も咎めないから咥えたままだった煙草を手に持ち替える。吐いた煙は天井に上っていくのに、声は床を這うほどに沈んでいるような気がして厭だった。 土方の言葉に、男は何のことだか分からないと云う風に眉間に皺寄せ、顎に手を添える。 「処分って、何の」 「煙草、吸ってたことです」 「あれ、認めんの? 案外素直?」 「云い訳も誤魔化しも利く状況じゃありませんから」 妙に引っ掛かる云い方をする担任に苛々してきて、言葉遣いで隠し切れない険が覗く。 「何か悪いって云うんですか」 今にも噛み付きそうな喧嘩腰の土方を、寧ろ愉しむような意地悪い笑みで眺めて男は首を左右に振った。 わざわざ生徒の喫煙ごときを報告して処分を決定するなんて面倒なことを、必要最低限の仕事しかやらない自分がする筈がないと少し考えれば分かりそうなものだが、生真面目な少年には思いも寄らないのかもしれない。 それに、この子は情という言葉をよく知らない。揺らがない規律で境界を作って、情による例外を拒んで誰にも頼らずに独りで立ち続けようとしているようだ。 それが教師と生徒の距離だと思っているのだろう。教師である自分は彼が引いた明確なラインの向こう側に位置付けられている。反抗的ではないのだが、近寄ってくることも、ない。 それで世の中を渡っていこうと思えば、風当たりはなかなかに強くなるだろう。何しろ依るべき風除けが無い。 もっと気楽に構えても良さそうなものを、と苦笑するような気分で睨んでくる土方の視線を受け流す。 「悪くは無いけど何て云うかなぁ、君は少し媚びるということを憶えたほうがいいと思うよ」 そう云って、教師は手のひらを上にして差し出した。 * 後篇 * |