銀八先生×土方/No.1
開け放した窓から風。 乾く眼が痛い。だから幾度も瞬きした。 滅びの風 ≪後≫ 水平にして向けられた手のひらを土方は怪訝な眼で見下ろした。何も乗ってない、皮膚は硬そうな節くれ立った手だ。 「この手は?」 「モノによっちゃ買収されるけど、ってこと」 誘うように指を動かして、反対の手でずり落ちた眼鏡をなおざりに押し上げる。曇ったレンズが一瞬だけ光を弾いて男の視線を隠す。 何を差し出せばいいのだろうというより、自分から買収を持ち掛けてくる教師が土方は信じられなかった。何を企んでいる。分からない。 唯、この男に関してロクな目にあったことがないのは確かだ。本当に、いつも、何度も。振り回されて掻き乱されて、砂漠のように刻一刻と様相を変えて、決して元のカタチに戻れなくなっていく己を自覚する。 「先生が、教えてくれるってことですか?」 媚びることを。 そうして、また掻き消しようの無い風紋が刻まれるのか。 含んだ嘲りを、ぼんやりした顔付きをしていながら鋭い男は感知しているに違いないのに、素知らぬフリで頷いてみせる。 「まぁ、そーゆーこと。体を張って生徒に教えてやる、やさしい先生だろ?」 「そういうことは自分で云うもんじゃないと思います」 「誰かが云ってくれんなら云わねぇよ」 それが、顔も声も変わらないのに拗ねているようなのが不思議だった。 指の間で煙草の先から長くなり過ぎた灰が落ちる。 土方の迷いも長くは保たずに脆くなっていた。床で崩れた灰を追って眼を伏せる。 崩れるのは一瞬だ。どんな微細な空気の揺れも切っ掛けになってしまう。 溜息にならないように細心の注意を払い、こっそりと息を吐き出して教師を見上げた。 「どうすれば見逃してくれますか?」 此方から取引を持ち出すような言葉を故意に選んで、土方は挑戦的に切れ長の眼を細める。 利用させてくれるというのなら、それも手だ。あの人に心配をかけずに済むのならそれに越したことはない。もし無茶な条件を提示されたら無かったことにして、大人しく処罰を受ければいいのだ。 「付き合って」 教師の要求は簡潔というより、言葉が足りていなかった。必要な成分が幾つも抜け落ちていて文章にすらなっていない。 「……何にですか」 「いや、何に、と訊くところじゃなくて、誰と、と訊くほうが正しいような意味で。あ、因みにこの問いの答えは俺とね」 自分の鼻先に人差し指を突き付ける、いつもと同じだらしない格好のまるで緊張感ない男。 「…は?」 だから完全に理解するまでに時間がかかった。つい間抜けな声を小さく洩らして、土方は言葉の意味を咀嚼することに集中する。 何に付き合うのかではなく、誰と付き合うのか? 漸く、それが一般に告白と呼ばれる内容だということに思い至り、思考が真赤に沸騰した。 巫山戯るなと土方は怒鳴りたかったのに、睨み上げた男の眼は濁りよりも静かな湖面のような深遠さが際立っていて、息が詰まる。 わけも分からずギクリとした。 だが、見間違いかと思うほど瞬く間に、いつもの死んだ魚のそれに戻る。 「と、まぁコレは冗談だけど、今回はハジメテってことで煙草。一本だけチョーダイ」 男は子どもが小遣いを強請るように、ずいっと手のひらを前に押し出してきた。 初めてだから、と付け加えられての安い要求は、回を増す毎にエスカレートしていくのだろうと予感させる。しかし土方は同じ轍を踏む気は更々なかったので関係の無いことだと思った。 ポケットから煙草のパッケージを取り出そうと、手にしていた煙草を咥える。すると空気と苦い味が流れ込んできて、今まで呼吸を止めていたことに気付いた。脈拍が、速い。 さっきのはからかわれただけなんだと、土方は暗示をかけるように心中で幾度も繰り返した。 そうしなければ何も、ひとつのことしか、この男のことしか、考えられなくなりそうだった。 煩い心臓の過剰な動悸に震えそうな手を意思の力で押さえ込み、パッケージの口を向けて差し出す。そこから一本だけ抜き取った教師は慣れた動きで口唇に咥えた。 「あ、オマケで火も」 それを聞いてライターを探ろうとした手を掴まれ、土方は眉根を寄せる。それと同時に後頭部の髪を乱す大きな手の体温を感じた。 淡い銀髪とは正反対に深い眼の、虹彩と瞳孔の僅かな色の違いが見える。 落としそうになる煙草を土方は思い切り噛み締めた。その煙草の火に男は咥えた煙草の先端を当てる。小さく仄かに赤い光、焦げる音。 火が移るまで男は土方が眼を逸らせないことを知っている顔で此方を見詰めていた。 ゆら、と立ち上ぼっていた紫煙にもう一条、上昇する煙が縺れ合い、絡みつく。 顔を離した男は灰色の息を吐き出した。 「これからは気を付けろよ。俺、お前の喫煙現場見付けるのにどんな手ェ使うか分かんねぇから」 弱みを握って迫ることを卑怯と罵るのならそれでもいい。もう形振り構っていられるほどの余裕がないのだ。深みに、嵌まり過ぎている。 自嘲を隠さない男は底冷えするような光を眸に湛えて、未だ嘗て見たことのない酷薄な笑みでかんばせを彩る。 風が吹き込んだ。 ゾク、と冷えたものが土方の背を伝い落ちる。 さっきも感じたワケの分からない、言葉にならない焦り。隠せなくて泣きそうに顔が歪んだ。 くちびるから煙草を奪われる。 風がまた、吹き入る。 「知っといて」 眼が乾いて、瞼を下ろすと声は近くなった。 口吻けるように、近く。 重ねた体温の熱と、絡まる吐息と、混ざり合う体液。 同じ煙草のにおい。 何も、考えられなくなる。 「本気だから」 だから、それは、何が。 * 前篇 * |