山崎×土方/No.5




 苦しい。
 胸が苦しい。
 重い。
 躰が動かせず寝返りを打てない。
 もしや、これが世に云う金縛りというものか。
 えーと、えーと、そういうときの対処法ってどうだったっけ。って、知るわけがない。
 無意識に苦し紛れで振り上げた手に何かが触れた。







     蜘蛛の巣 ≪前≫





 今日ほどこの仕事を辞めたいと思ったことはない。
 真選組を大家族と捉えるならゆったり寛ぎ皆が集まる居間ともいうべき食堂兼談話室の中で、山崎はひとり世界でも滅ぶかのような陰鬱な顔をしていた。確実に暗雲を背負っている肩の落ちようだ。
 その視線を落とす机の上には何の変哲もない報告書が乗っていた。真白でどうしようというわけではなく、きちんと完成済のもので、後は提出するだけの状態になっている。
 はぁ、と深く長く大きな溜息を一度吐いてしまうと余計に肩が下がった。
 土方にこれを提出するだけなのに、とてつもなく気が重い。この間あんなことになってしまってから気まずくて極力彼の近くには行きたくないのだ。だから上司は上司でも局長である近藤に提出しようかとも思ったのに、そんなときに限って出張中で不在ときた。思わず普段の行いを顧みる。…何も悪いことはしてない筈だ。
 ―――いや、土方に口吻けようとしたことは未遂でも充分に悪いことなのか。最大級の、悪いことになるのか。
 がくり、と机にくずおれて山崎は冷たい木目に頬をくっ付けた。焦点も合わないほど近くにある平たい書類が目に入る。頭の上に漬物石を積まれた気分だ。重い。
 誰かに頼もうかなァと考えていると、その報告書の上にパサリと降ってきた書類が重なった。
 突然現れたそれを、不思議に思って何度も瞬きする。目線を動かした先に沖田の姿を認めて、がばっと顔を上げた。

「隊長!?」
「今からそれ、出しに行くんだろィ? だったら俺の報告書もついでに渡しといてくれィ」
「い、厭です!」

 反射的に力の限り首を打ち振って拒否してしまってから、はっとする。シマッタ。微塵も変化してない筈の沖田の顔が、怖い。
 俺の頼みが聞けねェってのかィ?
 くりくりした大きな眸が、確実にそう脅しをかけてきている。頭の中が真白になった。土方と顔を合わしたくない。けれど断るのも怖い。どんな仕打ちを受けるか分からない。けれど会いたくないんだ、今は。
 八方塞で思考が空転して判断が下せない。どうしよう、ばかりが頭を占める。どうしよう。
 山崎が沖田をジッと見詰めたまま考えあぐねていた沈黙の時間を都合よく解釈した沖田は、頼むぜィ、と云ってさっさと踵を返してしまった。それに慌てて呼び止めようと口を開くが、発するべき言葉を思いつけず、結局無音で閉じる。
 山崎は断固と断れず、まんまと体よく押し付けられてしまう己の不甲斐無さに打ちひしがれた。再び机に倒した上半身から、もう支えなしでは生きていけないというほど力を抜いて深々と嘆息する。落ち込んだ気分は地にのめり込む勢いで急下降だ。立ち直れないかもしれない。これさえも沖田の嫌がらせの一部なんじゃないかと勘繰ってしまいそうになる。
 果たしてその通りだったというわけではないのだろうが、俄かに沖田が足を止めた。そして意味深な顔で肩越しに振り返る。

「山崎、あの人ァ時々タヌキだから気ィつけな」
「…え?」

 云われている意味がよく分からなくて聞き返したが、沖田はヒントを与えるつもりがないらしく、ふらりと今度こそ部屋を出て行った。
 あの人、というのはさっきの話の流れからすると恐らく土方のことだろう。
 しかし、あの人がタヌキ?
 人を騙すということを云っているのなら狸というより狐のほうがしっくりくると思うのだが。
 幾ら頭を捻っても納得のいく意味を見出せず、山崎は倖せなど疾うに総て逃げてしまったという風な溜息を吐いて、書類を掴んだ。










 山崎は身心とも疲れ果てて布団に倒れ込んで眠っていた。
 いつものように大部屋で雑魚寝ではない。個室で、ひとりでだ。
 山崎の役職である監察は、情報収集が主な任務である。そして陰に潜む攘夷浪士に関する情報を集めるわけだが、それらの動向が不穏になってくればより深く探りを入れるために夜間の諜報活動が不可欠となってくるのだ。
 今日はそれですっかり午前さまになってしまった。おかげでとても眠たい。
 大部屋で寝ると、他の一般隊士が起き出す時間帯には騒がしくて厭でも起きてしまうから、一応の配慮として監察には個室が与えられていた。
 個室といっても、三方を棚に囲まれて布団一組を敷くのが精々といった私物の置場もない狭さの、用途的にはどちらかといえば物置と呼ばれるような部屋である。棚に塞がれて窓もない。それゆえの暗さと、地震にでも襲われようものなら倒れた棚に確実に押し潰されるといったような圧迫感から、滅多には使わないのだが。
 それでも、個室=プライベートという甘い言葉に個室を貰えない平隊士はえらく憬れるものらしい。羨ましい、と云われることもままあった。
 そんな、イイもんでもないのだが。
 今晩掴んできた情報を、眠気で途切れかける頭の中で整理する。そして予感した。
 近々、大きな捕り物をすることになるだろう。
 情報が掴みやすくなったということは、それだけ連中の動きが大きくなっているということだ。それは奴らの物騒な計画が決行される日が近く、此方には時間の猶予がないことを意味していた。
 暫く忙しくなる。それは幸運だった。
 仕事に忙殺されていればあの人のことを考える暇もなくなって、仕事と割り切ってあの人と接していればいずれ平常心を取り戻せるかもしれない。いや、そうなってほしいという、これは自分の切なる願いだった。

 眠る直前までそんなことを考えていたからだろうか。
 金縛りに遭ったように仰向けになった躰が動かせないことに混乱し、遮二無二振った手に何かが当たって、薄っすらと眼を開けてみると自分に馬乗りになっている人影が見えてギョッとした。
 暗闇の中じゃそれが誰だか分かる筈もないのに、それでも眼を見開いてしまう。視界が夜に暗順応するより先に顔が近付いてきた。その気配が馴染みあるものに感じられて、ギクリとする。ありえない、と脳が拒否する。けれど感覚は胸の内にあの人を描き出した。
 おまけに、仄かに漂う煙草のにおい。決定打だ。顔を判別できるほど明るくもないのに確信してしまった。
 黒髪で、険悪な眼付きで、涼しげな声音の、凶暴な男。真選組副長。土方、さん。

 ―――夢だ!

 山崎は瞬時にそう判断、認識した。
 躰に圧し掛かっている重みは、平均的な男一人分の体重として妙にリアルだ。けれども、土方がこんな処に、しかも真夜中にいるわけがない。殴られるようなことはしてないし――バレてない筈だし、未だ嘗て寝ているところを起こされてまで暴力を振るわれたことはない。
 したがってこれは夢だ。
 夢だって色がついてたり匂いがしたりするらしいのだから、重さを感じたって可笑しくないだろう。そうだ可笑しくないぞ、と自分を納得させるのに少々無理があるのは、自分でも分かっていた。

「何だ、起きたのか」

 近距離で囁かれる、やはり聞き覚えのある声に山崎は泣きたくなった。
 お、俺は何をしたんですか。何をしちゃいましたか。何をやらかしたんですか。その起きちゃダメだったみたいな云われ方がとても心臓に悪いんですけど。え、何。一生寝てたほうが良かったですか。
 けれど、起きもしますよ。

「躰の上に乗っかられても寝ていられる人間なんて、そうそういませんよ…」

 幾らなんでも、そこまで鈍感じゃない。
 寝起きの少し掠れた声で云う山崎の胸に両手を突いて躰を傾けていた土方は、違ェねぇ、と低く笑った。山崎は元々夜目がきくほうだったから、今はもうその表情も見えた。
 土方は足を押っ広げて山崎に馬乗りになっているから、着物から僅かに太腿が覗いているのまで分かってしまって何だか疚しい気持ちになる。彼に対して、人には云えぬ感情を抱く身としては眼に毒だ。
 それを覚られまいと山崎が懸命に心を無にしようとしているのに、土方はあっさりそれを塵芥に帰させる。剣ダコで皮膚は硬いものの細く長い土方の指が、山崎の着物の衿を割り開いて素肌に触れたのだ。

「ふ、ふふふふふく、副長ォォォ?!」

 平静など完膚なきまでに打ち破られて、情けないくらい容易く動転した声はビブラートがかかった。胸に押し当てられた手のひらで、バクバクと暴れる心音を聞かれているようで落ち着けない。
 覆い被さるように鼻先が触れそうなほど近くで聞く土方の声は、麻酔のように山崎を何も考えられなくさせる。

「なァ、山崎。ヤらせろよ」
「………?!!」

 そんな声で紡がれた言葉に吃驚し過ぎて声も出なかった。
 至近で、すっと細められた眦がセクシャルでドキリとする。
 いや待て、待つんだ退。
 やるっていっても自分が思っているのとは全く違うことかもしれない。自分のとんだ思い違いだってこともあるのだ。この状況で勘違いを願うことにどれほどの意味があるのかは甚だ疑問だったが、山崎は理性で何とかブレーキをかけた。
 激しく脈打つ心臓が口から飛び出しそうだと厭な想像をしながら、上手く働いてくれない頭で必死に言葉を探す。

「あの、あの、誤解があったら困りますからきっちり確認しますけど…。やらせる、って具体的には?」
「セックス」
「何でそれで俺んトコに来んですかッ!!」

 肩でも掴んで揺さ振ってやりたい気持ちで、声の限り叫んだ。
 欲求不満なら女のところに行けばいいだろう。彼はモテないわけじゃない。寧ろ殺気さえ放っていなかったら女のほうから声をかけてくることだってあるのを山崎は知っている。以前に土方が非番で町に出かけていたときに山崎は市中見廻りをしていて見かけたのだ。
 なのに何故自分の処に来るのだ。土方は男で、山崎だって男だ。世間的には同性でセックスなんて、後ろ指をさされる事柄だろう。山崎は否定しなくても、それに嫌悪感をもつ人間は多く、衆道の気があるなどと知られるのは責任ある役職に就く者には致命的だ。
 土方は曲りなりにも副長の任にあるのに、こんな自ら弱みを掴ませるようなことをして、どういうつもりだろう。彼にしては軽率だ。山崎であれば周囲には洩らすまいと思ってのことか。それとも何か考えあってのことだろうか…いやいや、そんな莫迦な。不確実過ぎる。そんな賭けを彼は好まない。
 何で、何で俺のところに。いやしかし他の男のところに行かれるよりは…だってそれは絶対に厭だ。ていうか、だから女のところに行ってくださいよ。嬉しいんだけど、こんなに嬉し過ぎることなんてありえないという思いがあってこわい。
 纏まらない考えを持て余している山崎に見せ付けるように、土方は含みのある笑みを浮かべた。



「何でって、お前、俺のこと好きなんだろ?」








* 後篇 *
04.12.05




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