高杉×土方/No.1
「はじめまして、副長サン」 倒錯 Next |
いろ紙のように均一な淡い蒼の空に、ぽっかりと浮かぶ白い月。 まるで水面に映り込んだそれが波に歪んで千切れるように、その月は幾重にもブレて視認される。 何もそれは月に限ったことではなかった。平らな空と揺らめく月を切り取っている古びた窓枠も、ちょっと突付けば崩れそうな土壁も、ぽつねんと佇む消された行灯も、じくじくと痛む全身も、総ての輪郭が曖昧で、何もかもが正しくない。 意識は朦朧として、喉の渇きと躰の痛みが酷かった。 頭の中に手を突っ込まれて掻き回されるような不快感ばかりが断続的に襲ってきては精神を苛む。水は欲しても食欲など起ころう筈もなかった。無理矢理食事を与えられたような気もしたがすぐに吐いてしまったことが朧げに記憶に甦る。 鼻腔を刺激する酸っぱいにおい。吐瀉物が喉を逆流する嫌悪感。畳を汚し、それにかこつけて腹を蹴られてまた吐いた。蹴り飛ばされた拍子に口内を切ったのか染みる痛みが走って、吐き出したものに赤が混じる。厭なにおい。昏い視界。嗤う男。痛い。躰はもうとっくに悲鳴を上げていた。苦しいのか悔しいのか泣きたいのか分からないままに涙が零れた。それほどに限界だったのだ。 思い出して、身を捩りたくなったが四肢は重くピクリとも動かせなかった。 乾ききらないぬめりのある赤い血が気持ち悪い。内腿を伝う白濁した液体もだ。 どうしてこうなったのかを考える気力もなかった。 此処で目覚めてから何日が経過しただろう。それでさえももう数えていられない。 明るい空に充ちた月。昼と夜の交わった窓の外に感覚と思考は正常を放棄する。部屋は薄暗く、空は明るいが光が射し込んで此処の黒を払拭するほどではなかった。 認識できるものは到底受け入れたくないことだけだった。 痛みと苦しみとつらさと気持ち悪さと殺意と絶望で、頭がぐらぐらする。脳を揺さ振られるようだ。最早胃液も吐けないだろうに、まだ吐き気がした。 何てザマだ。死にたい。 絶望はひとを殺せるのだとはじめて知った。疵だらけの躰よりもこちらのほうが重傷だ。 意のままに動かせない躰は唯の枷で、異物だった。躰と心はそのように大きく隔てられ、今や血を流して完全に引き剥がされようとしている。その別離までの道程は耐え難い苦痛を齎した。 死ぬとは、こういうことか。 痛覚に意識を食い破られ、千切られる中で思った。 躰と心――それらの永遠の別れは即ち死だ。だからいっそ一思いに引き裂かれて、この泣き叫ぶほどの苦痛からとっとと解放されて楽になりたいとも願うのに、剥がされようとするそれにしがみ付かずにはおれない。だって、死ねないのだ。 瞼の裏に浮かぶ、遠いが大きくあたたかな光を棄てれなかった。生きる希望を与えてくれた、掛け替えのないひと。この命は自分ではない唯ひとりの、あのひとの為に使うと誓ったのだ。だから死ねなかった。まだ、死ねない。 ひたすら重い腕でのろのろと顔を覆った。たったそれだけの動作も億劫な自分が疎ましい。鉛でも喰わされたように鈍重な己の躰は床に張り付けられている。 「かえ…――っ!」 半開きのくちびるから無意識に滴った声は掠れて、悲痛な吐息にしかならなかった。 けれどその喘ぎで、己の悲願をありありと自覚する。不安定にぐらつく思考は唯それのみに収束していった。 早く。早く。 帰りたい。 自分を呼ぶ声がする。 けれどそれが心から望む声であろう筈はなかった。残虐な笑みを孕んだ声音。逆光の中に佇む影。ずきずきと痛む躰が受けた仕打ちを思い出させる。 鋭い牙に引き裂かれ、尖った爪に踏み躙られて。 俺はこの黒い獣に喰らわれたのだ。 |
「お、やっとお目覚めですかィ。丁度いいや、ドラマの再放送はじまりますぜ。一緒に見やしょう」 「…ああ」 逆光を背負った沖田の顔がにょっと視界に割り込んでくる。至近距離に現れたそれに心底驚いたのを表には出さず、ぶっきらぼうに頷いた。 その返事に満足した沖田が屈めていた上体を元に戻すと、明るい蛍光灯の光が真っ直ぐ眼に飛び込んできて眩しい。眼を細めてやり過ごし、自分は布団に横たわっているのだとぼんやりする頭で思い至る。 ドラマの再放送がはじまるということは、今は夕方か。そんな時間まで寝ていたのかと自分に呆れかけたところで、漠然とした違和感に気付く。 巧くは表現できないのだが、眼の覚め方が違った。揺蕩うような心地好さを残した、けれど意識がすっきりする眠りからの目覚めではなく、そう、意識を失った後の覚醒のような突然さだ。前後の記憶が巧く繋がらない決定的な断絶を、否応なしに感じさせるそれだった。 肘を突いて躰を起こそうとする些細な動きさえも怠く、意図的に鈍く遠ざけられた痛みがじっとりと走る。思わず顰めそうになる眉間を無表情に保ち、奥歯を噛み締めて殊更に緩慢な仕草で起き上がってテレビに眼をやった。 同じようにテレビを見ている様子の沖田が、しかし神経の総てを此方に向けているのには気付いていたから、自分の躰の状態を視覚で確かめたりしない。皮膚の感覚で、着物の下はミイラ男かと思うほどに包帯で覆われているのが分かっていた。それを気にしないのも不自然かと思ったが、しかし気にする素振りを沖田に見せてはいけないとも強く思ったのだ。 けれど、喉に異物が突っ掛かるような違和感と全身を埋め尽くす負傷の原因を突き止めて、今の気味悪さを解消したいという抗いがたい衝動もあった。 何か、釈然としない蟠りが奥底にある。それは見過ごすことができないのに、答えを持っている筈の自分の記憶には問えなかった。開いてはならない箱なのだと、己の声が頭蓋骨を谺する。その蓋に手を掛ける勇気がなくて、誰かの手を求めてしまうのだ。 躰が軋むようにぎこちなく、至る部位に巻かれた汚れのない包帯を異様に感じた。自分にとって穢れのないものというのは、不吉なのだ。 呼吸を遮るものなど何もないのに息苦しい。楽になりたい。 記憶にある今までの展開と話が繋がらないドラマはちっとも面白くなかった。 「―――総悟。俺、昨日のやつ見たか?」 一瞬吹き抜けた風は、紛れもない違和感だった。 「何云ってんだィ、俺と見たじゃねぇですか。幾ら土方さんでもボケるにゃまだ早ェですぜ」 「その余計な口斬られてェのか、アア!?」 横目で睨み付けるが、憎まれ口を叩いた沖田は相変わらずの無感情な顔で平然と視線をかち合わせる。 「……頭でも打って、記憶トんじまったんじゃねェですかィ?」 そう云った沖田の眼が、どうしてか途方もなく切ない感情を映しているように思えてならなかった。 |
紅が落ちた。 意識せず最低限の瞬きだけを繰り返す視界に入り込んだそれが、拡散していた思考を徐々に明瞭にさせる。 ぽたり、と音でもしそうな潔さで畳に降った紅は花瓶に挿してあった椿の花だった。今は途中からふたつに分かれた枝の片方にしか花がない。 活けた花を愛でる趣味をもっている奴など誰か知り合いにいただろうか。答えは否だ。第一、こんな家具も満足に揃っていない荒ら屋の殺風景な部屋に先ず置くべきものは花瓶じゃなかろう。いかにも不似合いな斬首の椿を何とはなしに眺めながら考え、唐突にハッとして飛び起きた。――正確には、飛び起きようとしてそれができないことに気付いた。 勢いで僅かに浮いた上体を成す術なく畳に打ち付け、土方は衝撃に息を詰める。猿轡を噛まされていて吐き出すことができなかった。 胸骨に鈍く響く痛みをやり過ごしてから、顔だけを横に向けて俯せていた躰を捩る。全身の感覚を取り戻すと、無理に背中へと回された腕に続く肩が痛んだ。後ろ手に手首を縛られている。ささくれのような荒縄の感触に戦慄した。 記憶回路は混乱していて今に至るまでの経緯を思い出せはしないが、己に不利で危険で絶望的に良くない状況におかれているのには違いない。 鉄錆に似た死のにおいが部屋には漂っていた。それは部屋の一隅に据えられた行灯の薄ぼんやりとした灯りの中で眼に見えそうなほどの濃厚さだった。胸クソ悪い。意識が覚醒したのなら一刻も早く此処を離れるのが賢明だろう。幸いに人の影は見当たらない。逃げるなら今のうちだ。 腕は不自由でも足は縛られていないようだった。それなら手を使わなくとも立てる。膝に力を込めて立ち上がろうとした。が、突如として駆け巡った激痛に躰を痙攣させてガクリとくずおれる。 「…!! ……ッ、っ!」 電気のように突き抜ける痛みで喘ぐ息は、噛まされた布に堰き止められて苦しかった。無様でも声を出せたほうが幾らかマシだ。脛の辺りが焼かれるように。痛い。ずっとしていた血臭さは己の脚に負った怪我の出血からだったのだと覚る。しかもそれは一箇所ではなく、大腿の肉も斬り付けられているようだった。裂けた黒い布地から覗く脚が赤い。 口を覆う布に苦悶の声は押し返され、苦痛まで体内に蓄積されていきそうなのとは逆に流出していく血で眩暈がする。ぐらぐらと眼に映る全部のものの輪郭が歪んでメチャクチャに絵の具を混ぜたような気持ち悪い色彩に彩られて、脳髄を揺さ振られる不快感に厭な汗が滲んだ。 痛みを軽減する術もなく瞼をきつく閉ざし奥歯を噛み締めて蹲る。脚に集中する痛みを散らして紛らわそうと殆ど無意識に頭を打ち振り、額を畳に擦りつけた。眉間に異常なまでに力がこもる。脂汗が伝い落ちる。くぐもった呻き声は布に吸い込まれて。 疵を一度認識するとその痛みは際限無く精神を蝕んだ。吹き飛びそうになる意識を押しとどめるのに必死で、近付いてくる気配になど気付く余裕はなかった。 「あァあ。疵を縫ってもねェのに動こうとするからだぜ」 粘着質に耳にこびり付く声が聞こえ、土方は眼を瞠って顔を上げた。白い足の甲、派手な色遣いの着物、なのに闇から生まれ出でたような印象の男が煙管を咥えた口を斜めにして嗤う。 男は長い前髪の下で片眼だけ覗く目線を、這い蹲る土方と合わせるように悠然としゃがみ込んだ。その眸もやはり、笑んでいる。ゆったりと伸ばされた手は明らかに刀を扱っているものであったが、何処か繊細さを残していた。指が土方の黒髪に絡み、乱暴にぐいと頭を掴み上げる。もう一方の手は素早く猿轡を外して、頭髪を引っ張られる痛みに唸った土方の声が今度は障害もなく口から洩れた。 「うっ……ぁ」 「ホラ、飲めよ」 男はそう云い、薄く開いた歯列から口内に指を突っ込んで舌の奥に何かを乗せる。容赦無しに深くまで入り込んできた異物に土方はえずいた。けれど吐き出すことを男は許さず指で舌を挟み、土方の顎を上向かせて無理矢理嚥下させようとする。苦しくて生理的な涙が眦にじわりと浮かんだ。それが零れるより早くに土方は正体の分からない小さな固形を飲み込んでしまう。 土方の無駄な抗いを愉しんでいた指は、その後も散々やわい粘膜の口腔を撫でたり引っ掻いたりしてから唾液を纏わりつかせて出ていった。 「ヘンなもん飲ませたわけじゃねーから安心しろ。鎮痛剤だ」 土方はその言葉も耳に入らない様子で忙しなく呼吸し、肩を上下させている。掴んでいた髪を離すと頭は重力に従って畳に落ちた。拘束されて腕が使えぬから持ち堪えるだけの力がないのだ。 ヒュ、と喉が痞えたような息を洩らした土方がのろのろと双眸を男――高杉に向ける。水の膜が張った眸は行灯の光を映し込んで思いがけず強く煌めいた。強い意思、強い信念。そんなものを核に形成された人格は揺るぎない忠義心を抱えているように見える。 ニタリと仄暗い笑みを浮かべ、高杉は言葉を舌に乗せた。 「オメー、人騙すの巧ェだろ」 脈絡のない問い掛けに虚を突かれたような顔をしたのは一瞬で、土方はすぐに強情な仏頂面に戻る。もしかすると、そうやって痛みを堪えているのかもしれなかった。まだ薬は効いていない。しかし、かといって人前で痛がって悲鳴を上げるなど土方の矜持が許さないのだろう。 逃れる手段もない己の無力を知りながらも土方は此方を睨め付ける。屈服させ、捻じ伏せてやりたくなるような表情だ。抵抗すればするほど相手の残忍な部分を煽ることにしかならないのだと、この男は夢にも思っちゃいない。 「一人の男に入れ込んで幕府の狗に成り下がっちゃァいるが、その腹ン中には何を飼ってやがる?」 どうしたところで人には慣れぬ、凶暴なものを飼っているだろう。 そう言外に含め、穏やかな日の当たる場所など似合わないのだと男は詰る。 テメェが俺の何を知ってるってんだ。 土方は吐き棄ててやりたかったが苦痛に苛まれて声にできなかった。顔を顰めて無言を押し通す。火焔のような憎しみを込めて睨み据える土方の脇腹に、高杉は戯れそのままの気軽な所作で小刀を突き立てた。 部屋中に絶叫が響いた。 高杉は口を三日月に吊り上げる。獲物を甚振ることにこの上ない愉悦を感じる、凶悪な笑みの形相だった。 刺した刀の切っ先で抉れば、どぷりと鮮血が溢れる。その深紅に酷く気分が昂揚する。 「う゛ァ、あああぁぁああッ!!」 赤く熟れた肉から刃を引き抜いた。裂けそうなほど見開いた眼から正気の光を失いそうな土方の、苦痛の声しか零れないくちびるに彼自身の血を塗りつけてやる。そうすると紅を注したように色付いたそこに口唇を重ねた。鉄錆の味がする。噛み付くように口の中を荒らしまくって悲鳴は呑み込ませて躰の中で渦巻く興奮。 「ッぐ……ンンっ!」 腕が縛られて脚は傷だらけで撥ね退けることも逃げることも、後頭部を荒々しく固定されて顔を逸らすことも、何もできない。しかし当然、受け入れることもできよう筈がない。 口腔の性感帯を刺激する、血を舐めとって尚赤くなった男の舌に土方は食い千切っても構わないという力で歯を立てた。 バッと離れた男の顔には癇癪のような殺気が浮かんでいた。真新しい疵に近い鳩尾を殴られ、土方は畳を転げる。 げほ、と噎ぶように息を吐いて身を丸める土方を男は熱さすら感じるほど冷たい眼差しで見下ろした。 「屈辱にまみれて泣いて許しを乞うてめェは、さぞかしイイ顔をするんだろうなァ?」 もう一輪の紅が、音もなく落ちた。 |
2004.12.12