高杉×土方/No.1









 貧血のようにクラクラする。
 ぐにゃりと曲がって見える板張りの廊下を真っ直ぐに歩けず、土方は壁に手をついた。躰も預けて瞼を閉じる。気持ち悪さを吐き出すような息を肺から絞り出して気を引き締め、眼を抉じ開けた。
 そして幾分か落ち着いた視界に近藤の姿を見付ける。彼は土方に驚いたように眼を大きく開いて、慌てて大股で駆け寄ってきた。

「トシ! まだ寝てろって!」
「近藤さん。……俺ァどうしたんだ?」
「へ? 何云ってんだよ。どうもしてねぇだろ」
「ならこの疵は?」

 自分で着た覚えのない着物の袷に手をかけ、肩を露出させる。そこは関節に近いからかそうそう解けぬよう丁寧に包帯が巻かれていた。
 別に怪我自体は武装警察なんて仕事をしていると珍しいものじゃない。だが、怪我を負った状況が思い出せないというのははじめてだった。それも、肩だけではないのだ。実際に眼で見て確かめてはいないが、感覚で分かる刀疵だけでも腕、脇腹、大腿に、打撲痕も鳩尾に残っている。そして細かい疵はもう数える気も起こさせないほど。
 余程根深い怨みを感じずにはおれない執拗さだ。
 自分の身に何が起こったのか。何故、思い出せないのか。土方は歯痒かった。

「その疵は昨日攘夷浪士を一斉検挙すんのに斬り合ったときのだよ。出血が多くて、すぐ気絶したところをやられたんだろうと先生は仰ってたぞ」

 運悪く周囲に味方がいなかったからそんな疵だらけになってしまったが、痕が残るほどのものは少ないと。男の勲章が増えなくて残念だったな、と近藤は快活に笑ってみせる。
 豪快なそれとは対照的に細やかなやさしさの手が、さり気無く土方の肩にちゃんと着物を着せ直してやる。土方は眉間に皺を寄せて近藤を見詰めた。それが足下の覚束無いような、酷く心細げな眼をしていることは恐らく自覚していないのだろうが。
 近藤の笑顔を見ても心は晴れなかった。拭いきれない齟齬が土方には残された。半ば茫然と、眼を落として呟く。

「憶えてねェ」
「怪我のショックと昏睡でちょっと忘れただけだよ」

 寝すぎると脳ミソ融けるっていうしな、と冗談を云って子どもをあやすように土方の髪を撫でる。そのあたたかい手にほっとした。
 けれど、今ひとつ納得はできなかった。苦しい言葉を、と思う。何も憶えてなどいないのにだ。それでも、近藤が沖田より自然にそういうことを云うのが可笑しかった。これはやはり生きてきた時間と背負った責任と経験の差だろうか。
 アイツもまだ、何だかんだで子どもってことか。
 そんなことを考えるのはとても平和なことのように思われた。帰ってきた。此処に。
 ……何処に、行っていたというのか。
 記憶が錯綜している。パズルのピースのようにぴたりとは嵌まってくれない。怪我を負って、意識を失って、一日寝ていたのだと一応の説明をされてもまだ何か重大な欠落があるような気がしてならなかった。―――そして、その空いた闇を覗き込んではいけないという気も。
 攘夷浪士の一斉検挙については憶えている。かなりの数を引っ捕らえることができるだろうと予想された大規模な作戦だった。
 それが、昨日のこと?
 もっと前のことではないのか。しかし、その作戦の成果もそれ以降の日々のことについても何も思い当たらない。寝ていた。そうだ一日昏睡していたのだ。だから随分と前の出来事のように思うだけなのかもしれない。

「…すぐに駆け付けてやれなくて、すまん」

 何か、大きなジョーカーのカードを伏せられているような不安感と気味の悪さ。それを呑み込んで消化するのは難しかったが、近藤の心から悔やんでいるような声がつらくて、問い詰めることもできなかった。
 土方は否定を示して首を振る。

「それは、近藤さんの謝ることじゃねぇよ。俺がしくじっただけだ」

 もしくは、知りたくないとも本音では思っているのかもしれなかった。
 こうも徹底的に隠された事実が、良いことであろう筈がない。俺は一体どんな目に遭ったというのだ。それは本人相手に隠蔽しなければならないようなことだというのか。

 それとも本当に、あれは夢か?

 暗示のように洗脳のように、そうだという気もしてくる。少し寝過ぎて、記憶が混乱しているのだと。何より、そのほうが都合が良かった。
 あんなのが現実だったなどと思いたくない。――どんなのだというのか。あれとは何だ。憶えていないのだろう。その筈じゃないのか!
 ああ、もう疲れてしまった。何もかもが面倒になってくる。

 夢、だ。

 夢にして忘れてしまえる条件は揃っている。ならばそうしてしまえばいい。今は充たされて、これ以上望むものなど何もない。このささやかな幸福だけで充分なのだ。だからそうすることくらい許してくれ。
 仲間のくれる言葉だけで記憶の空白を埋めて、現実に転換してしまっても、構わないだろう。

「壊れろよ」

 唯、脳内に響く言葉だけが不快だった。





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 捻じ込まれた灼熱は目の前を真白に弾けさせた。
 ふたつ、斬首された椿の鮮やかな紅さえも色褪せそうな、それは衝撃だった。

「―――ッぁ! はっ、ぁ、あ……!!」

 神経回路をぶった切られるような絶痛に喘ぐ。さんざ叫んだ喉は嗄れ、声は潰れ、涙だけは限界を知らず流れた。
 何故こんなことになったのだ。
 四つん這いよりも尚酷い。後ろ手に縛られて手を使えぬから俯せで畳に肩から落ちて、腰だけを高く持ち上げられる。そんな体勢を強制され、男に躰を無理矢理開かれる屈辱に土方は震えた。
 何かも分からぬトロリとした冷たい液体でおざなりに潤しただけの秘所に男のモノを埋め込むのは到底不可能に思われた。先端も含まぬうちから今にも裂けそうな痛みを覚え、躰は強張って拒絶を示す。なのに男は容赦無く強引に土方の中に押し入ってきた。耐えきれず切れた入口から血が垂れて内壁と内腿を濡らす。
 男の動きに合わせ汚らしい水音を立てる赤。躰を揺すられ疵を擦られて呻く己の声。耳を塞いでしまいたいのに手は戒められて。

「いいザマだな」
「ンぐっ………ぅ――! あッ、ハァ」

 意味のある声など存在しなかった。無意味に、無益に、唯痛めつける為だけの言葉と共に内部を抉られ、悪態をつこうとする言葉は総て呻き声になって上擦る。
 乱暴に腰を打ち付けられ、自身の躰を支える術を持たない土方は人形のようにガクガクと揺さ振られた。吐息を引き攣らせ、顔を歪める。
 全身の血が沸騰するように痛い。後ろ手に縛られた縄で肩が痛い。徒に刺された疵が痛い。
 これは、陵辱だ。
 人格も尊厳もプライドもズタズタに踏み潰す、その為の行為だ。
 土方はぐっとくちびるを噛んだ。声を、殺す。そうしてこの責め苦が終わるまでひたすら耐えるつもりだった。
 屈してやる、ものか。
 許しを乞うなど真っ平だ。屈服すればその瞬間に、自分は自分でなくなる。生き延びる為に媚びることや逃げることはできたとしても、今この男に許しを乞うことだけは厭だった。
 躰から強張りは抜けず、己を貫く男の昂ぶりをはっきりと感じるのは不快だった。それが寸前まで引き抜かれると一緒に腸壁まで引き摺り出されるようで歯を食い縛る。
 顔を押し付けた畳の藺草のにおいと、濃密な血の生臭いにおいに顔を顰めた。汗で湿った髪が額に張り付いて気持ち悪い。

「声、出せよ」

 土方は頭を左右に振って拒絶した。ぱさぱさと黒髪が揺れる。
 それで興が冷めたというより一層愉快だとばかりに、男は真白い包帯に覆われていない片眼を歪に細めた。つまらなさそうな声を装って、嗤う。

「…ふぅん」
「ッが、ぁああぁあ!!」

 軽く振るわれた小刀が土方の腕を裂いた。それで土方が声を上げると、太い血管は狙わず甚振るように疵を増やす。深紅がボタボタと褪せた色の畳に散った。
 男は鈍く光る白刃に纏わりつく赤を舐め、残りの血液は土方の隊服で拭い取った。
 再開された律動はやはり苦痛しか土方に与えず、飛びそうになる意識は真白に塗り潰される。
 何故こんなことになったのか。男の狙いが何なのか、分からない。何も考えられない。
 ビクリ、と土方は大きく躰を痙攣させた。背を撓らせて、声にならない喘ぎに口を戦慄かせる。

「ゃ、めっ…、ィ――ふ、ぁ」
「あぁ、ココか」

 顔の見えない背後から聞こえる、心底面白がる声が酷く耳に障った。
 ちか、と瞼の奥で点滅した快楽のカケラに己の躰の浅ましさを呪った。
 手首に巻かれた縄と、そのせいで脱ぐことができず腕に絡まった隊服の布を男が掴んで上体を引っ張り上げられる。その、怠い躰に鞭を打つかのような扱いに土方は奥歯を噛んで低く呻いた。背中から抱き込むように覆い被さられる圧迫感に肺が収縮するような心地がする。
 耳殻を男の生ぬるく湿った舌がなぞり、緩く噛まれて肩が震えた。

「狂えよ」

 鼓膜に毒が、注ぎ込まれる。





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「この薬ちゃんと飲んでくださいね」
「は? 何で薬なんか」
「何でって風邪気味なんでしょう? だから早めに手をうっといたほうがイイって云ったのは副長じゃないですか」

 そう云われるとそうなのかと思うほど山崎はさり気ない、いつもの顔だった。
 最初にコイツと話していたなら、或いは何の疑いも持たずに総て夢だったと思えたかもしれない。その優しさに騙されたかもしれないと土方は思った。
 時間を追う毎に脳裏にちらつきはじめた、不吉な映像。憎い声。厭な顔。今はもう、夢とは思えぬほど鮮明になってきている。抱いた殺意すら刀を求めた手のひらに明確に甦った。
 恐らくこの薬は鎮痛剤だろう。ジワジワと躰の至る箇所が痛みはじめている。効力が切れる時間なのだ。小さな錠剤を見下ろし、脳の底が疼くような感覚を憶えた。忘れてしまいたいような記憶の断片。捕まえようとした手からするりと抜け落ちていく何か。

「大した怪我じゃなかったんですけどちょっと熱も出ちゃいましたしね。用心に越したことはないですから」
「大したこと…ないか?」

 満身創痍な己を見下ろし、それから訝しげな眼を山崎に向ける。山崎はその雰囲気が読めないのか読む気がないのか、へらりと笑ったまま頷いた。

「ええ。調子に乗って大袈裟に巻いちゃっただけです」
「……調子に乗って?」
「だって寝てる副長に包帯巻いてたら何かミイラ男みたいで面白く、って…」

 山崎の声はだんだん語尾が小さくなっていき、完全に消えた頃には笑みがカチンと凍りついていた。うっかりと滑りが良すぎる己の舌を山崎は恨む。
 ゆらりと焔が燃え上がるような、なのに静かな土方の眼に見据えられて冷汗が背筋を伝った。土方の背後に鬼の姿がダブって見える。彼がもし刀を持っていたなら確実に抜き放っていたことだろう。斬りかかるときの体勢で、じり、と開いた片足を半歩下げている。
 危険信号点滅。

「山崎ィィィ!!」
「ぎゃああぁぁぁあ!!!」

 叫び声を発し、血の気が引いた必死の形相で山崎は踵を返して逃げ出した。土方がその後を追う。だが、廊下の角を幾つか曲がっただけでもう見失ってしまった。
 土方は忌々しげに舌打ちする。山崎を捕まえて殴れなかったことよりも、それほど走っていないのにもう息が乱れたということに何より腹が立った。怪我のせいだけでなく基本的な筋力が衰えているように感じる。まるで長い間ロクに躰を動かさなかったから鈍っているようだと思い、我知らず否定するように首をフルフルと振った。頭痛がしてくる。思い出したくないのだろうか。吐き出す息が自然と重くなる。
 そこへ土方の激昂が収まるのを見計らったように山崎が顔を覗かせ、渡し忘れたんで、と薬を差し出してきた。受け取らないわけにはいかなくて、山崎の手のひらからそれを摘み上げる。と、山崎の手はそのまますいっと持ち上がって土方の額に押し当てられた。思わず後退りしかけるのを土方は堪える。けれど僅かには震えてしまったから、覚られたかもしれなかった。

「あ、何か変だと思ったらやっぱり熱出てるじゃないですか!」

 そう云って今は心配そうな感情を浮かべている三白眼は、偶に酷く鋭い目付きをするが、山崎の表情の大半は正直そうな好青年だった。要領が悪そうで弱気な態度もしてみせるが、本質は強かで抜け目ない。しかし外見でそれを殆ど覚らせないこの男に、監察という役割はまさに天職だろう。
 本当に隠し事が巧く、人を騙すことに長けている奴というのは山崎のような男のことを云うのだと、取留めのないことを思う。自分は云うほど、人を騙すのは巧くない。

「早く休んでください」
「…そうだな」

 たとえ見る夢が極彩色の悪夢でも。





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2004.12.12