金時×土方/No.1




 欲するものなど何もない。






     Ich will ...prologue 我は欲す





「金ちゃん」

 凛とした良く通る女の声。
 その、聞き慣れた冷ややかに甘い声音を受けて金髪の男が振り返った。店内の仄明るいだけの光にも男の髪はきらきらと反射する。カラーコンタクトには決して表せない生粋の碧眼はいやに濁って、底の窺えぬ深さがあった。接客中にならもう少し煌めかせもするが、今日はもう閉店だ。そこまで頑張って見栄を張るほどのやる気などある筈がない。店の入り口に婀娜っぽい立ち姿で佇む女は己の馴染みであるのだから尚更だ。
 この街の裏に住まう者で彼女を知らぬ者はいないであろう。もしいたとしたらそいつはモグリだ。
 豊満な身を包むスリットの深く入った際どいチャイナドレスと纏め上げたピンクの髪。中国系マフィアのボスなんていう大層な肩書きをもつ女―――神楽である。尤も、これが本名なのかは甚だ怪しいものであるが、それはどうでも良いことだ。

「どした? 店ならもう閉めたぞ」
「分かってるわ。ちょっと大荷物なの、手伝ってくれないかしら?」

 神楽は本当に困ったように――けれどポーズだ――そう云い、横を向いて視線を外にやった。おそらく、そこに大荷物とやらが置いてあるのだろう。彼女に持てない大荷物が、金時に持てる筈などないというのに。
 またどんな厄介を持ち込んで来たのか。
 男―――金時は溜息を吐くが同時にくちびるの端も吊り上がった。これだから自分は彼女に付いていくのである。退屈しない。ホストだって長く続けて慣れもすれば単調になってしまいがちで、そんな日常に気紛れな津波を起こしてくれる彼女に金時は好感を持っているのだ。
 閉店準備の掃除をしていたモップをバーカウンターに立て掛け、神楽に歩み寄った。扉の奥には眠らない夜の街。深夜でもネオンが煌めき、空の明るい満月さえも不健全に見せる濁った空気。煙草が吸いたくなる。外に顔だけを出し、『大荷物』とやらを認めて金時はスーツの内ポケットを探る手を止めた。
 人間だ。
 薄汚れた男がぐったりと店の壁に凭れさせられている。深く俯いている為に顔は窺えないが、意識がないことは明らかだった。

「死んでる?」
「気絶してるだけよ」

 それはまた、本当に厄介な。
 取り敢えずこんなものを店先に置きっ放しにしていては体面にかかわるので、金時は男の首根っこを引っ掴んで中に引き摺り込む。肩が剥き出しのチャイナドレスの上にショールを羽織りなおし、後に続いて店に入ってきた神楽が後ろ手に扉を閉ざした。
 汚れた月の視線が遮断される。満月よりもっと控えめなオンナノコのほうが好みだ。





「最近この付近で色々探りを入れてたようだから、ちょっとお灸を据えようと思ってね」

 だから人通りの少ない路地に入ったところで一撃お見舞いしてやったそうだ。マフィアの女ボスがとんだお転婆である。ソファに寝かせると汚れてしまうから床に転がした男に視線を差し向け、スツールに腰掛けた神楽は堂に入った仕草ですらりとした足を組んだ。
 女と思って油断したらしいと神楽は云う。人間離れした膂力で体術にも優れた彼女を相手に油断していては一溜まりもなかっただろう。男ひとりくらい簡単に担げるクセに、か弱さを装いたかったのか面倒だったのか引き摺ってきたようで砂埃にまみれた男を見下ろし、同情する。ヤローに気持ちを傾けるなんて勿体無いが、まぁ金時と同じくらいの体格と項に少し掛かる程度に伸びた黒髪の後頭部と何処にでもありそうなスーツ姿が、この間の愉しいアイツとの出来事を思い起こさせるので少しくらいならそんな気分になってやっても良い。
 とんだ災難だったね、君。
 うつ伏せで今だ失神している男に内心でお悔やみ申し上げた。
 私のことを知らないなんて、と金時の横で神楽が妖艶な相貌に似合わぬ可愛らしい怒り方でくちびるを尖らせる。ふっくらした彼女の口唇によく似合う紅いルージュは、この春の新色だと金時はほぼ無意識に思った。職業病だ。

「アレの手先かと思ったんだけれど、違ったみたい。お仕事の邪魔して悪いことをしちゃったわ」

 アレとは神楽の――延いては金時の、対立勢力のことである。それは別として、どうも神楽は既にこの男の素性を知っているような口振りだ。そちらのほうが金時は気になった。
 喰えない女を横目に見下ろすと、神楽はすッと何処からか取り出した黒い手帳を口許に当てる。

「こんなのに、」


 警察手帳だ。


「お世話になるようなことはしてないし、ね?」

 意味ありげな流し眼で金時と視線を絡め、金時が無言で同意を示すと鈴を転がすような声で笑った。
 世の中には知らないほうがいいことだってある。自分が何処まで深部の事情を知っているのかということを、金時はいつも極力考えないようにしていた。泥沼に嵌まるのは御免だ。
 喉が渇いたと飲み物を所望されたので凭れていたカウンターの内側に手を伸ばしてコップを取り、水道の蛇口を捻った。不味い水、と云いながらも神楽は一息に飲み干す。

「そンで、どうすんの? コイツ」
「そうねェ…一般市民を東京湾に沈めるワケにもいかないし」

 警官も一般市民で括ってしまうような世界に生きる彼女は、早くも様々な思惑に頭を巡らせているようだった。一体どんなことを思いつくのか、薄ら寒くもあり愉快でもある。

「物騒なこと云うなァ」
「それ以前にコンクリ詰めも惨殺も嫌いだわ。スマートじゃないもの」
「同感。殺しゃイイってもんでもねーよな」
「都合よく私にヤられたこと忘れてくれないかしら」

 それは都合が良すぎるだろうよ。
 けれど神楽は本気でそう願っているような表情をして、ピンヒールの爪先で転がされた男の肩を突付く。スーツの布地越しでも分かる、細身だが引き締まった体躯からするとそこそこに若い男であろう。
 不意に何か思いついたみたいに神楽はスツールから降りて、男の顔を覗き込むように身を屈ませた。

「そういえば、結構可愛い顔してたのよ」
「へぇ〜」

 男の顔に可愛いもクソもあるものかと思いながら生返事をすると、妬いてるの?とからかわれる。振り返って男から金時に眼を移した神楽は、ふふ、と小さく笑った。

「金ちゃんも可愛い顔してるわよ」
「そりゃ有り難い」

 今度店に来たらご指名ヨロシク。
 己の上司に意味のない言葉を吐いて茶化す。ホストはそりゃ話術などのテクニックや愛嬌も必要だが、顔の良し悪しも大きく関わる職業だ。褒められれば素直に受け取っておく。だってそれはそのままあたたかいご飯とふかふかの布団に繋がるのだから。
 そうだ、自分にはそれだけでイイ。後はテキトーに過ごせる気の置けない仲間が少しいれば、もう望むものなど何もない。

 ―――死んでもいい。

 そんな身を焦がすような熱情を知らない。

 ―――ねぇまた逢えるかな。
 ―――…名前も知らねェのに逢えるわけねーだろ。

 社交辞令に対してあんなに律儀な言葉を返してくる人間など金時は今まで知らなかった。
 どうしようか。思い出すと本当に逢いたくなってくる。名前もケータイ番号もメアドも何も教えてもらってないし教えてないのに。こんなことならどれだけ嫌がられても訊いときゃ良かった。無理矢理名刺でも渡しておけば良かった。
 こんな気持ちになるなんて。全く迷惑な厄介を運んできてくれたものだ。腹癒せに金時は倒れた男の腹を蹴り上げた。気分は晴れない。気絶したまま男は苦痛に低くうめいて眉間に皺を寄せる。

「――――は?」

 金時は眼を瞠った。
 蹴った衝撃で男の躰が引っ繰り返った。長めの黒い前髪が横に流れ、瞼を閉ざした顔が露わになる。今まさに逢いたいと思っていた記憶の人物とタブる、いや同一の顔。金時は乾いて痛みを訴える眼をゆっくりと瞬かせた。狐に抓まれた気分だ。幻覚でも見ているのか。
 俄かに動揺しだした金時を、肘を突いた手の上に顎を乗せた神楽は捕食者の眸で見上げた。

「知り合い?」

 嘘を許さぬ絶対的な響きの篭もった問いを掛けられ、金時は返事に窮した。
 その肌の熱さを知っていても名を知らぬのは、果たして知り合いと云えるのかどうか。
 考えあぐね、ついでに好奇心に爛々と輝く蒼い双眸の圧力に負けて金時は正直に白状することにした。

「ちょっと行きずっちゃった、みたいな」
「節操ナシ」
「でなきゃホストなんかやってらんねェっつの」

 心底呆れた調子で呟かれた言葉に苦笑を滲ませて答える。
 それにしてもまさかこんな処で再び逢うことになろうとは。しかも彼は警官だと。何て皮肉な状況だろうか。ボロボロの男を見下ろして思った。気付いてしまった以上、彼を神楽にどうこうさせたくないというのが本心である。コンクリ詰めとか惨殺死体とか。内臓売り飛ばすのも勘弁。今のところ、神楽にそういう意思が見られないことが救いだった。
 そして金時は、じわじわと己を突き動かす仄暗い欲望にくちびるを歪めた。
 これは間違えようもなく縁だ。それも今を逃したら一生巡り合えないような、とびっきりの。

「……神楽ァー」
「なァに?」
「お願い聞いてくんねェ?」
「聞くだけなら聞いてあげる」

 その言葉が八割方、諒承の意であることを金時は知っていた。



「この子俺にくれない?」






05.04.24




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