金時×土方/No.1




 眩しくて眼が開けられない。
 怠くて重い腕を持ち上げて光を遮り、そうして漸く瞼を退けた。
 煙草のヤニですっかり黄ばんだ自宅や職場とは違って、まだ新しく白い天井が見える。
 此処は何処だ。

「…っ、………!」

 躰を覆う薄い掛け布団を撥ね退け、起き上がろうとした。しかし、鳩尾から波紋のようにズキリと全身を駆け抜けた痛みにそれは叶わず蹲る。
 一旦気付いてしまえば鈍痛は波濤のように押し寄せてきた。清潔そうなシーツに額をこすりつけて奥歯を食い縛り、唸り声を噛み殺す。鳩尾の辺りが痛みと共にぐるぐると気持ち悪く渦巻いていて吐き気がした。大きく開いた口から吸い込んだ空気は喉で悲鳴のように引き攣った音になる。
 何だ。何がどうしたんだ。
 瞼の裏で女の口許が笑った。

「……かは、ッ」

 うつ伏せに丸めた躰の中心が重く、腹を抱える。不快感が胃の底で蠢いていた。嘔吐する感覚が喉元をせり上がってくる。苦しい。気持ち悪い。けれど実際に吐き出すものは何もなくて尚のこと気分は悪化した。畜生、と声になったのかも分からない。

「あーあ、そこで吐くなよ? 汚ェから」

 ぐっと痛みに耐える男に掛けられた声はあまりに薄情で、睨め付けるように眼を抉じ開ける。
 金髪の男。
 ソイツが声音と何ら遜色ない表情で戸口に立っていた。







     Ich will ...1 我は欲す





「この子俺にくれない?」

 ライター貸して、と頼むより軽い調子で吐かれたお願い事にちらりと流し眼を遣って、神楽は黒の手袋に包まれた指を3本立てた。

「3万?」
「金ちゃんの給料3ヶ月分」
「高っ!」
「何云ってるの。ひと一人の値段としては格安、価格破壊も真っ青じゃない」
「けど元手タダだろ? ぼってんじゃん」
「元手より高く売るのは当然。世の中は何でもビジネスよ。本当は人身売買もシュミじゃないんだけど、金ちゃんになら売ってあげてもイイわ」
「………」

 気を持たせるような口振りで云って金時の表情の微細な変化を見定めつつ、神楽は足を組み替えた。チャイナドレスのサイドのスリットから肉感的な太腿が覗く。捲くれた布地を元に戻して狐のように眦を細めた。
 金時は軽く俯き、思案に耽る。顎を引くと金糸の前髪で目線が隠されて表情が見えなくなった。莫迦らしいほど真剣に考え込んでいる自分がいる。そんな様を神楽に見られ、笑われるのは御免だった。
 照明を落とした薄暗い店内が静寂に充ちる。好奇心をありありと宿した神楽の蒼い眸が此方を向いているのは意識せずとも分かっていた。彼女はそういう女だ。自分が面白いと思うことなら、それがどんな酷いことでも構いやしない。
 金時が針の筵に座らされた気分でいると、奥のスタッフルームから顎の見事に割れた青年が現れた。一般的な黒髪と非凡な顎を持つ眼鏡の男――新八である。

「金さん、掃除終わりました? って、来てたんですか神楽さん」
「ちゃん」
「え?」
「神楽ちゃんって呼んでくれなきゃイ・ヤ」

 ルージュに彩られたくちびるで子どもの我が儘みたいなことを云う。そこに含まれた、やたらと強制力のある響きに――そんな気は元よりないのだけれど――逆らえる筈がなかった。
 バーカウンターのスツールに腰掛けている神楽とその横で難しい顔をしている金時に歩み寄り、新八は笑んで己らのボスを歓迎した。

「…神楽ちゃん、いらっしゃい。何かあったんですか?」
「身辺は至って平和よ。今日はちょっと商談にね」
「商談?」
「そ。それも人生最大のヤツ」

 新八の疑問符に答えたのは飛び跳ねた天パを指に絡めては解いている金時だった。
 まぁ人生最大といっても床で伸びている男にとっては、であるのだが。
 手持ち無沙汰に指を動かしながらも、やけに熱心に下を見ている金時の視線の先を新八は追った。何か大きな黒い塊があり、眼鏡越しに眼を凝らす。

「あれ? そこの汚い……って、に、にににに人間?!! どうしたんですか何で倒れてんですか!!?」

 店中に響き渡るような大声で叫んでも眼を覚ます気配のない男が床には転がっていた。
 まさか死んでいるのかと厭な予想が脳内に一瞬閃く。しかし、続く性悪ふたりの発言に頭はまた別の混乱に乗っ取られた。

「俺のモン」
「私のものよ」

「ナニ人間をさらりと物扱いしてんだアンタらァァァァ!! 人権擁護団体に訴えられるよ!」
「物に人権なんてないじゃない」
「主語からして間違ってるからソレ!」

 普通じゃない世界に生きる人間に常識を説くことの虚しさをひしひしと感じながらも新八はツッコまずにはいられなかった。なのに金時と神楽は物凄くつまらないものを見る眼を新八に向けてきた。恐ろしく冷めた色をした二対の碧眼に新八はたじろぎかける。

「ンだよ、ぐだぐだ云うなよケツアゴ」
「そうよ。そんなことじゃ客を逃すわよケツアゴ」
「ケツアゴなのは認めるけどそう呼ばれるのは認めんぞォォォ!!」

 心外だと訴える新八の言葉を無慈悲に聞き流した神楽がぽんと手を打った。そして片想いの相手を見つけた少女のように、或いは悪戯を思いついた少年のように表情を輝かせる。
 金時も新八も、そんな彼女を注視して言葉を待った。

「イイこと思い付いたわ」
「イイことォ?」

 あからさまに胡散臭そうにする金時に妖艶な、企みを含んだ微笑を神楽は浮かべる。

「金ちゃん、その子タダであげる」
「―――で?」

 対照的に金時は不味い酒をかっ食らったようにくちびるを歪めた。
 この女豹が本当にタダで手放すなど、万分に一の気紛れでも有り得ない。タダより高いものはないという言葉が脳裏をちらついた。
 神楽は長い指で床に倒れ伏した男を指差し、歌うように『イイこと』を声に紡ぐ。

「この子の口から私のことが出てこないようにして頂戴」
「それァ、記憶を上から塗り潰すくらい酷いコトしろってこと?」

 酷薄な声音は何もない空洞を谺するような薄ら寒い空虚さを孕んでいて、店内の温度が一気に下がる錯覚を引き起こした。
 新八は俄かに訪れた緊張に表情を硬める。雰囲気に圧され、口を挟むことができなかった。しかし今までにどんな修羅場をどれだけ潜り抜けてきたのやら予想もつかない、平然と金時を見返す女は紅い魅力的なくちびるを三日月に象ってさえ見せる。

「それは金ちゃん次第。手段は問わないわ。でも、もし失敗したら違約金として給料3ヶ月分ね」

 何処までも食えない女だ。
 どう転んでも神楽のイイようにしかならない提案に金時は噴き出しそうになった。一方的に不利なハナシだ。そこまでのメリットがあるのか否か打算的に考えてようとして、その無意味さがバカバカしくなりやめる。
 コイツが欲しいという欲求と感情にメリットなんて存在しない。
 取り出した煙草を口許に持っていき、ライターを探した。見つからない。そういえば、と煙草を咥えたまま視線を下げた。
 この商品も結構なチェーンスモーカーだったっけ。
 スーツのポケットを漁ればライターのひとつでも出てくるだろうか。

「神楽ァ、」
「商談成立?」

 金時は口端を引き上げた。





 漸く目覚めた男は苦痛に喘ぎ、警戒心を露わに眉根を寄せて金時を睨め付ける。
 幾度か荒い呼吸を吐いた後に発せられた声は酷く掠れていたが、金時の元までかろうじて届いた。

「テメェ、誰だ」

 くく、と金時は喉の奥で声を噛み締めるように笑った。
 確かに、すぐ思い出すことはできないだろうと思う。後生大事にするほどつぶさに相手を見る必要など何処にもなかったし――普通なら二度と会うこともなかったろうから――、ズタボロだったあの時の彼の精神状態でマトモに人の顔を記憶しているほうが不思議だ。
 金時はさり気無く尻のポケットに手を伸ばし、そこに入れた警察手帳を撫でた。神楽からこの男の身柄と共に預かったものだ。これを足掛かりにしてかなり情報を仕入れさせてもらった。もう、あの晩の何も知らない自分ではない。

「名前知らなかったけど、また会えたね」
「…っ!?」

 キュッと瞳孔の開いた真ん丸な眸に金時のニヤついた笑みが映る。金時の顔は憶えてなくとも思い当たる節はきちんとあったらしい男は驚愕を顔全体に浮かべ、掛け布をきつく握り込んだ。動揺からだろう、微かに震えを帯びた声は金時をこの上なく愉しい気分にさせる。

「な、んでテメェがいんだよ」
「何で、って云われても此処俺ン家だし」
「あァん?」

 だったら何故自分が此処にいるのかと、黒髪の男は更に眼を丸くした。強張り関節の白く浮いた手から力が抜け、剥き出しの肩から掛け布がずり落ちる。
 取り敢えず汚れた服を引っ剥がしたはいいものの服を着せるのが面倒だったから裸でベッドに押し込んでおいたのだが、これはなかなか。眼の保養というか毒というか。
 平らな胸に憶えた欲情を回顧しつつ、ベッドの縁に腰掛けた。キシ、とスプリングが軋む。下心を金時は営業用の笑みに隠した。

「こないだは自己紹介しなかったよな? どぉも、歌舞伎町でホストやってる坂田金時です。今回はウチのボスがご迷惑お掛けしたようで」
「ボス? …あの女が?」
「あ、やっぱ憶えてる? だよねェ、そんな上手くいかねーよなァ。若くて美人デショ、ウチの女ボス」

 オメーも美人サンだけどね。気の強そうなトコとか俺の好みだし。
 軽薄な口調で澱みなく賛辞を送ると男は物凄く厭そうに眉根を寄せた。

「触んな」

 頬に伸ばした手を邪険にはたかれる。嫌悪感に充ちた眼で睨め付けられ、金時は潔く手を引っ込めた。
 そんな、頑なな態度とるのやめてくれないかな。凄く意地悪したくなるから。

「例の彼とは、仲直りした?」

 自ら地雷を踏む。肌がビリ、と感電するような空気が押し寄せてきた。心からの昂揚感に先とは違う類の笑みが金時の眼を細めさせる。
 血の滲みそうな強さで噛み締めたくちびるで大きなお世話だと声もなく男は云った。金時を射抜く眼差しは眼球を刳り貫いてやりたくなるほど強く鮮烈だ。
 彼はどうしてこうなのだろう。消化できない想いを棄てられないどころか眼を逸らすこともできずに真っ正面から唯々溜め込んでいく。莫迦なヤツ。だからこんな悪い男に付け込まれるんだよ。
 今度はやや強引に男の顔を掴み、嫌がるのも無視して此方を向かせた。あらゆる感情が鬩ぎあって、苦しんでいるような吐息を零した男の表情を長めの黒い前髪が幾分か覆ってしまう。

「…あのさ、10日間だけ此処にいない?」

 苦しいなら忘れてしまえばイイのに。
 怪訝そうにする男に、金時は優しげに微笑してみせる。

「……は?」
「忘れさせてあげるよ、全部。つらいことも哀しいことも、心臓が張り裂けそうに」

 うれしいことも。
 提案すれば真黒な眼が惑いに揺らぐのを見て取り、とびっきり甘やかす声で囁く。



「ねぇ、どう?」






05.06.03




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