金時×土方/No.1




「もし外したら、分かってるよな?」

 土方の左手首に巻き付いた赤い呪縛を、いとおしげに撫でて金時は艶美な笑みを浮かべた。







     Ich will ...4 我は欲す





 閉ざされた寝室の扉を見遣り、土方は手首をさすった。
 安っぽい合皮の、赤くて金色の鈴が付いた猫用の首輪がそこで存在を主張している。首に巻くには長さの足りないそれを、金時は四六時中付けていることを命じた。
 何故、諾々と従っているのだろうかと自分でも思う。

 ―――忘れさせてあげるよ、全部。
 つらいことも哀しいことも、心臓が張り裂けそうに、うれしいことも。

 けれど、そう思った途端に甘ったるい誘惑が脳裏に甦って思考を鈍らせた。
 だから閉じ込められているわけでもないのにこの部屋を出れない。何でもない顔をして、あのひとの前に立つ勇気がまだないのだ。
 固く瞼を閉ざして額に手を押し当て、悔しさを耐えるように髪を握り締めると鈴の音が耳のすぐ近くでした。昨日の昼、金時の手によって付けられたそれの齎す違和感は一日やそこらじゃ解消されていない。寧ろ、されてはならないのだと、強く思う。
 この音が鳴る度に、神経がぴりぴりと張り詰めた。あの男が仕事に出かけ部屋にいないときでも、その存在を至近に感じているようで奥歯を噛む。
 今も、そうだ。

 ―――寝るから、起きるまで部屋に入ってこないでね。

 昨日も今日も、そう云って金時は寝室に引っ込んで行った。
 あの男は眠るところを他人に晒さない。
 ほんの数日共に過ごしただけの土方にも知れるほど、それは徹底されたものだった。ずっとそうして、誰にも心の深層までは侵入させずに生きてきたのだろう。
 可哀想な奴、と少しだけ思う。
 腕を下ろし、寝室の扉から離れると足を踏み出す毎にチリン、と鈴が鳴った。
 壁掛けの時計を見れば丁度昼時を差してして、ホストと違い規則正しい生活をしている腹の虫が騒ぐ。昨日も今日も、金時は食料を一切買ってこなかった。これで普段の生活はどうしているのだろうかと思わずにはいられない。
 首輪の裏地は触れる肌に疵が付かないようにする為か、フェルトのようなやわらかな生地に覆われていた。くすぐったいようなその感触に土方はまた手首をさすり、こんなもん買ってくるくれェなら食いもん買ってこいよと毒づきながら台所を漁る。マヨネーズと卵は昨日でなくなってしまったし、白米だけの食事は三食も続けばいい加減違うものが食べたくなった。戯れで独占欲が強いかのように装って見せることはあっても、本質的に金時は呆れるほど無頓着で、執着というものを見せない。だから許可を請わずに食料や使うタオルなどを探し出すことに土方は罪悪感を覚えなかった。あの男のプライベートな部分はもっと奥の、それこそ土方の眼に触れない場所にあるのだ。
 合鍵でも見付かれば、食料を買いに行くくらいなら外に出られそうなのにと思うものの、土方が触れた範囲内には見付からなくてこうしてこの家に篭っている。
 しかし、本当にそうなのか、という声が不意に胸の中で響いた。
 甘く魅惑的な言葉の鎖と、拒否を許さぬ独裁者然とした眼差しに縛られ、合鍵など渡されても一生此処から動けないのではないかと考えかけて土方はそれを否定するように緩くかぶりを振る。そうすると呪縛を具現化したような首輪の鈴がチリチリと控えめに鳴った。
 その音を極力意識しないようにしながら土方はシンク下の棚から見つけ出した素麺を茹で、醤油と味の素や塩で味を調えて器に移した。具もない質素過ぎる食事を腹に入れ、大して面白くもないテレビ番組を見るともなしに見る。

「腹減るにおいすんだけど、なぁに食べてんの?」

 そのとき唐突に開いたドアの音と共に聞こえてきた声に、土方は我知らず肩を強張らせた。
 さっと走らせた視線で確認した時刻は金時が寝室に入ってからまだ二周ほどしかしていない。てっきり昨日と同じように仕事に出かける夕方頃まで起き出してくることはないだろうと高を括っていた土方はこれに酷く狼狽した。
 困惑した眼をする土方に、金時は首を傾げる。

「そんな疚しいもんでも食ってんの?」

 カップ麺もロクに置いてなかった気がするけどと金時は呑気に呟き、寝乱れていつも以上に飛び跳ねた金髪を掻き毟った。
 その気が抜けたような雰囲気に、土方は落ち着きを取り戻して息を吐く。そういえば、と此処で目覚めてから煙草を吸ってないことを思い出した。

「唯の素麺だよ、この家マジに何もねぇから」
「あー、うん。そうだよな、メシ買ってくんの忘れてたわ。悪ィ悪ィ」
「……テメェの分はねぇからな」

 妙な期待をもたれても困るから先に明言し、食べ終えた食器を持って土方は立ち上がる。
 その手首に巻き付いた赤と、チリチリと踊る小さな金の色に金時が満足げに口の端を吊り上げた。

「似合うよ、それ。かわいい」
「嬉しくねぇよ」

 女の容姿を褒めるような甘い声音とそれに相応しい表情を浮かべる金時を横目に睨み付け、短く吐き棄ててキッチンに立つ。流し台で蛇口を捻り、食器を洗った。流れる水の音と鈴の音が掻き混ぜられる。
 それに気をとられていたら、長くしなやかな腕が気配も感じさせず腰に回されてきて土方はひくりと躰を揺らした。帰ってきて先ずシャワーを浴びていた金時からは普段漂う香水のにおいがせず、調子が狂う。

「お前が嬉しくなくても、俺は嬉しいよ?」

 襟刳りの広い服だから露になっている項にくちびるで触れながら金時が喋ると、骨の浮いたそこが震えた。その反応が愉しくて強く吸い付くと、シンクに落ちる食器の音が鈴の音と息を呑む微かな声を打ち消す。
 金時は笑みを堪えて、呆れたような声を作った。

「あーあ、割ってねぇよな?」
「ン、なこと云うんだったらやめろや!」
「イヤ。だってちょっと気分盛り上がってきちまったし」

 ざぁざぁと流れ続けていた水を止めた金時の手が服の裾から忍び込んできて、土方は本格的に焦りはじめた。繰り返し首に落とされるキスに何かが背筋を伝って腰を痺れさせる。

「このまま此処で、イイ?」

 その言葉に対する拒否権はあるのかと云いたかった。
 泡だらけのままの手でシンクの縁に掴まると手首の首輪が澄んだ音を立てる。聴覚から、自分は愚かな道化であることを突き付けられる。
 あのひとに向けたつらい想いも、あのひとから受けた死にそうなほど嬉しい出来事も、忘れさせてあげるとこの男は云った。その言葉は嘘じゃないと知らされる。
 この場所にいたら、自分が今まで築いてきたもの総てを壊されて塗り潰される。

「……ぁ、ッ―――!」

 なのに、逃げられなかった。
 目の前の冷たいシンクに滑る手で必死に縋り付く。中途半端にずり落ちたズボンと下着が足に絡んでもどかしかった。伝い落ちる汗と涙が視界を滲ませる。
 躰の奥に押し込まれる衝撃に戦慄く脚を持ち上げられ、未知の深さまで貫かれて土方は仰け反らせた喉から濡れた声で啼いた。





 ふと浮上する意識につられて瞼を持ち上げると、そろそろ見慣れてきた寝室の天井がぼんやりと視野に映る。その端に室内の蛍光灯でもきらきらと光を弾く金色を見つけ、土方は掠れきってしまった声で呟いた。

「今、何時だ?」
「もう夜だよ。よく寝たね、まぁあんだけやれば当然かな?」
「し、き魔が」
「褒め言葉と受け取っとくよ」

 恨みつらみを籠めて吐き出した言葉は軽くいなされる。
 この柳のような男には何を云っても無駄かと空しく思い、はたと金時が此処にいることのおかしさに気付いた。スプリングの利いた酷く寝心地のいいベッドで仰向けになったまま、その端に腰を下ろしてこちらを見詰める金時を見上げる。その向こうに見える大きな窓の外にあるのは、真黒な空と輝く町のネオンだった。

「仕事、は…」
「俺の?」

 問い返され、痛む喉を今更酷使したくなくて土方は黙したまま頷く。
 すると金時が、くすりと酷くやわらかな色で表情を綻ばせた。緩やかに笑んだ蒼の眸が土方の眼を奪う。今まで触れたことのないやさしさを目の当たりにして、土方は乱れる己の脈拍の鼓膜のすぐ近くで聞いた。

「今日は休み。だから今夜は一緒にいられるよ」

 睦言のように云って、金時は土方の前髪を横に撫で梳くと額にキスを落とす。ちゅ、と恥ずかしくなるような音がした。むずがるように土方が布団に潜りこもうとしたら、金時の手がやんわりとそれを阻んだ。

「……何だよ」
「後始末、ちゃんとしてないから。このままだと躰に悪いよ」

 そこまで面倒を、看てくれるとでも云うつもりか。
 本当に猫を甘やかすような、唯甘いだけの扱いを受けるのは土方にとって最高に居心地悪かった。ソレは、人間に対するものではないからだ。
 チリン、と金時の頭を退けようと上げた腕と連動して鳴る音に、土方はどうしようもなく苦々しげに眸を曇らせた。
 眉根をぎゅっと寄せる土方の表情に、金時は殊更やさしげで弱きものを慈しむ笑みを浮かべる。優美な曲線を描くくちびると細められた双眸は微笑として整い過ぎていて寒気がした。

「だから、もう用意もできてっし風呂入ろうね。上がる頃には夕メシも出来上がってると思うし」
「メシ?」
「そ。お前が意識飛ばしてる間暇だったから買い物行ってグラタン作ったんだよね。そんで、今レンジの中」

 一晩働いてからほんの数時間休んだだけで土方の意識を飛ばすまで犯し、その後にまだこれだけ動いて平然としている金時の化け物並みの体力に土方はいっそ呆れ果てた。自身に向けられた土方の視線に気付いた金時が条件反射のように目許を緩め、何、と問い掛けてくる。

「休まなくて、いいのか」
「何で休んでないって思うの?」
「テメェが俺にベッド譲って自分はソファで寝るなんざ気を遣う筈がねェし、かといって此処で一緒に寝たって形跡もねぇからだよ」

 ともすれば気付かれないような、得にならないやさしさをこの男が振り撒くことはない。
 躰の奥に感じる不快感を思い出し、土方は早く風呂に入って白濁を洗い流そうと怠い上体をのそりと起き上がらせた。冷たいフローリングの床に足を付けて立ち上がると、金時の手が土方の躰を支える。

「―――へぇ、さすが」

 金時は白々しく口笛を吹いて、さすが刑事さんは違うね、と云いさして口を噤んだ。現を忘れさせる為に此処にいるのに、わざわざ思い出させてしまうなんて勿体ないと思う。
 不自然に途切れた言葉を訝しまれる前に、金時は眦に口吻けて微笑んだ。

「じゃあ今晩は一緒に寝ようか」






07.02.09




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