それはまだ別れの予感さえない冬のこと。 冷たい1月の雨が窓に滲むような模様を描き、外の風景が奇妙に歪んで見える。この冬の、それも雨が降り頻る真っ只中に窓を開けることなどできよう筈もなく、なので昼食後の一服が出来ず土方は少しご機嫌斜めの様相であった。 食い終わって空の弁当箱を鞄に仕舞い込んだ金時は、雨やまねーな、と僅かに険しい顔をしている土方に話しかける。 そうだな、とこの上なくぞんざいな返事を返して校医は不機嫌に頬杖を突いた。今は真っ当な保健室利用者もいないのだし、換気できなくてもいいから吸ってやろうかと、かなり本気で考える。珍しく煙草に占領されていない薄いくちびるを親指の腹でなぞり、我慢しきれなくなったのか煙草のパッケージを取り出す土方の横顔を金時はじっと見詰めた。ゆっくりと、前後逆に座っているスチール製の回転椅子の背に乗せていた腕と顎を持ち上げる。 そして、ぽつりととんでもないことを零した。 「せんせー、ちゅうしたい」 「はぁ?! 何だいきなり」 「なんかね、そんな気分」 「気分でされて堪るか」 面食らった顔を一瞬で苦虫を噛み潰したようなそれに変え、土方は一度は金時に向けた視線を逸らして煙草を咥えた。 毎度本気とは思えない気楽な口調で付き纏ってくる生徒の言葉を、いちいち真に受けるのも莫迦らしい。あんなに軽く告白紛いな言葉を繰り返して、お前はホストかジゴロかと思うほどだ。ホストのあしらい方は不本意ながら目の前の生徒に年齢を足しだけの顔をした銀髪男のせいで慣れていると思っていたのに。 「えー、キスって気分でするもんじゃん?」 「好きな奴とならな」 「わぁ、意外とロマンチスト?」 「殴るぞ」 低く恫喝するように応えてジッポで火を灯し、灰色の息を吐いた。やはりこれがないとどうにも落ち着かない。苦味と肺を充たす紫煙を満喫していると、もの云いたげな金時の眼差しを感じた。何だ。今更喫煙に文句があるわけでもなかろうに。しかし流石に居た堪れなさを憶えるほど強い視線を注がれ、仕方無しに土方は眇めた眼に金時を映す。 そうすると思いがけず真摯な金時の表情を知る羽目になってしまい、土方は後悔することになった。 「せんせー、まだ俺のこと嫌い?」 「………どうだろうな」 煙草を噛み締めるように咥えたまま、はぐらかす言葉を口にする。しかし土方がきっぱりと否定しない意味を理解できる程度には、この生徒は人の心を読むのが巧かった。本当の子どもみたいにあからさまな嬉しさを湛えて顔を綻ばせて云う。 「やっぱり、キスしたい。せんせーがヤだって云っても」 「っ、オイ!?」 嫌な予感を含んだ言葉に土方が柳眉を寄せる。そして、すっと流れるような自然さで手を掬い取られ、不覚にも心臓が大きく音を立てた。 脳裏でチラついた危険信号に、しかし躰の動きは追いつけない。ぴくりと指先が震えただけで、土方は掴まれた手を振り払えなかった。それが、いけなかったのだ。 「けど、口は煙草に取られちゃってるから今はこっちね」 ちゅっと音をたてて手の甲に口吻けられ、それにいちいちうろたえるような可愛い性格はしちゃいない。 それでも、きつく顰めた表情の中、黒い眸が耐え切れず揺れた。 暑苦しく喧しく鳴き続ける蝉の声が気分を辟易とさせる。 7月の期末テストが終わり、校内は一気に夏休みムードで浮き足立った空気が流れていたが、補講日の今日はそれよりもがらんどうといった雰囲気であった。何処か空虚な雰囲気が廊下や静かな教室のそこここに蔓延している。定期試験後の補習期間など、一通り授業に出席してテストでもそこそこの点数を取っていれば実質的には殆ど休みといって良いものだ。 そして部活に所属しているわけでもないからこんな日にはテスト中に溜まった鬱憤を晴らす為町に遊びに行ったりするのが常なのに、金時は制服を纏い学校を訪れていた。下駄箱から一直線に目的の部屋へと足を運び、保健室と記されたプレートを見上げてすーはーと深呼吸する。 夏休みまではまだだから、彼はきっといる筈だ。そう思い扉を開けると、予想通りいつもの仏頂面で土方はファイル片手にコーヒーを啜っていた。クーラーが高めに温度設定されているからか涼しく快適とは云い難い気温と湿度の部屋で、白衣の袖を捲くって晒された彼の腕の白さがいやに眼に付く。 「せんせー、今ひとり?」 金時が声をかけると、此方を向いた土方は瞳孔が開き気味で黒い眸を僅かに見開いた。 彼が稀に見せる、そんな素の表情を眼にする度に好きだなと自分の想いを再確認する。 「オメー、どうしたんだ。今日は授業ねェだろ」 「大好きなせんせーに逢いたくて来ちゃった」 「戯言ほざくな。何やらかしたんだ」 「ひっでぇ。何もしてねーって」 土方の辛辣な言葉に金時は軽く苦笑した。 本当に、バレるようなヘマは何もしていないというのに。と云うと呆れられる気がするので胸の内に秘めておく。 安っぽい回転椅子に足を組んで腰掛けている土方を立ったまま見下ろすと、密に生えた睫が瞬きに上下する様が眼を射た。 「ああ、だけどこれからしでかしちゃうかも」 「は?」 「俺さ、色々考えたんだけどダメだった。どうしたらいいのか伝わんのか全然、分かんねェ」 云いながら机の上に乗せられた土方の手を掬い取れば、それがひくりと震えて緊張するのが直に伝わってくる。表情は眉ひとつ動かず変わっていなくても、触れていれば分かる。 「どうしたら、本気だって信じてくれんの。抱きたいって、云えばいい?」 「阿呆。それじゃ躰が目当てだって云ってるようなもんじゃねーか」 「あ、そっか。でも、せんせーって見えないもん信じなさそうだから心が欲しいって云っても駄目かな、って」 「……まァ、そうだな」 「けどね、俺は心と躰って繋がってると思うんだ。でなきゃ、こんなにここがドキドキしたりしねーし」 掴んだ手を己の胸、心臓の上に押し当てさせて金時は土方に早鐘を打つ鼓動を教える。 その重ねられた手の熱さと真直ぐな眼に、土方は抵抗できなかった。 「ねェ、俺はせんせーを愛したいんだ」 まだ残暑の茹だるような気温を記録し続ける9月の新学期に、誰もが過ぎ去った夏休みを惜しみ、また同時に引き摺っている中行われた始業式で土方は離任式を済ませたが、そのときの壇上からでも目立つであろうあの金髪を見つけることは出来なかった。 そうして次の学校での着任式に急ぐ教師たちと一緒に退場して、そのまま始業式の続く体育館を抜け出す。少ない私物は夏休みの内に全部運び出してあったので脱いだ白衣を詰め込んだ紙袋と形式的に渡された花束を持って土方は校門ではなく屋上に向かった。 滅多に使われず風雨に晒されて古びた扉を外に押し開く。 ギイ、と響く大きく軋んだ音に驚いて振り返った金髪に、土方は声を放った。 「始業式から何サボってんだ不良」 「っ、せんせー!? な、んでこんなトコにいんだよ、保健室放ってきていいの?」 「生憎、俺はもうこの学校の職員じゃないもんで」 おまけに次の赴任先も決まっていないから明日からは再び就職口探しである。 土方はまだ暑い陽射しに眼を眇め、金時の隣に並んでフェンス越しに誰もいない校庭を見下ろした。しかしそれだけだとどうにも手持ち無沙汰で、スラックスのポケットに手を突っ込んで煙草とライターを取り出す。咥えた煙草の煙が風向きのせいで金時に流れていくが、彼は珍しくこちらを見もせず黙りこくったままだった。 何となく、夏休み前のあのときに会ったきりだったのだと土方はぼんやり思い出す。 「………」 暑いな、と思った。 コイツは何故好き好んでこんな処にいるのか。 待つことに僅かに苛立ちながら、短くなった煙草を落として踏み消す。じりじりと総てを焼き尽くすかのような太陽の恩恵が今はいっそ恨めしかった。 もう少し待って何の反応もなかったら帰ろうと決めて二本目に火をつけたところで、金時が面白みもない平坦な校庭を見詰めたままぽつりぽつりと喋りはじめる。 「俺さァ、本気だったよ」 「……」 「本気で、好きだったんだ」 「……悪かったな」 それは、温度のない声で吐かれた端的な断りの言葉だった。 「………せんせーの、そーゆートコが」 「嫌い?」 「好きだったんだよ」 「シュミ悪ィな」 「自覚あるなんてタチ悪ィよね」 吹っ切れたような声音で金時が笑う、その隣で土方も肩を揺らす。 そうして軌道の乱れた紫煙は、感傷の残骸のようにゆらゆらと空に滲んで消えていった。 ≪前篇 |