傲岸不遜。 それはきっとこういう奴を云うんだろうな、と思いながら土方は白衣を引っ掛ける。まだ出勤してきたばかりだ。朝のHR前で、いつもならゆっくり過ごしていられる筈の時間なのだが、早くもやって来たいちばん客が、まさにそんな様子で丸椅子に踏ん反り返っていた。 片眼を眼帯で覆った、どちらかというと小柄な餓鬼。黒い詰襟の上着はひとつも釦を留めずに、品行方正だとは確実に見られないだろう、タチの悪そうな顔付きをしている。 土方はキャスター付きの椅子を正面に据えて、何かに警戒するように静かに腰を下ろした。 確か高杉晋助だったか、と土方の縄張りである保健室の常連になっているこの生徒の名を記憶から引っ張り出す。 白衣の下の胸ポケットから煙草のパッケージとライターを抓み出して、生徒の前にも拘らず火を点けて旨そうに紫煙を吸い込んだ。吐き出すついでに、何の用だ、と面倒そうに問う。 「眼ェ痛ェから診ろ」 「アァ? ンなのは眼科行け眼科。俺が診てもそんな専門的な箇所のことなんざ分からねーよ」 「何だ冷てぇなァ、生徒が助けを求めてるってのによ」 いつも危ない光を灯らせている眼を細め、少年はニタニタと笑う。 その生意気な態度と、腰にとどまる痛いような怠いような不快な感覚に土方はフィルターを噛み締めた。 ハッキリ云って機嫌は頗る良くない。いつもなら仕事中には微塵も思い出さない筈なのに、今日はどういうわけか不意に脳裏に浮かぶ、飄々とした銀髪の男がその元凶だった。 あの野郎、俺は健全に朝から仕事だってのに明け方まで好き放題ヤリやがって。 自分は夕方に起きればいいからなどと身勝手なことをほざく口に雑巾でも詰め込んでから奴の家を出てくれば良かった。そうするだけの理由と権利くらいある筈だ。 利用者名簿にもうすっかり憶えてしまった高杉の学年・クラスと氏名を書き込み、ペンで眼帯を指した。 「それ外せ」 云うと、笑みに少し満足げな色を混ぜて高杉は眼帯に手を掛ける。 躰を前に乗り出し、現れた左眼に顔と手を土方は近付けた。取り敢えず、下瞼をぺろりと引っ繰り返してみる。そこは血の色が薄く白に近かった。貧血なんじゃないのか、と思う。 眼球は、云われてみれば少し赤い気もするが、だからといって気にするほどのものでもないように見えた。だが、そもそも高杉が何で年中眼帯をつけているのかも土方は知らないし、眼のことなど範疇外なのだ。見た限りでは大したことなさそうでも事実そうなのかまでは分かる筈もない。 「あんまり痛ェなら今すぐ行ってこい。そうじゃなかったら様子見だな。我慢しろ」 「痛み止めくらい寄越すもんじゃねェの?」 「巫山戯んな。お前耐性できてて効かねェだろ」 顔を顰めて、鋭く云い返した。 そんな奴にも莫迦正直に薬を与えるなど勿体無い。というか、痛がる素振りをちっとも見せないクセに信じられるものか、と思う。 そういや、先生ってのは生徒を信じるのが仕事、なんて誰かが云ってたな。だったら俺は教師失格ってわけだが、まぁ知ったこっちゃない。クラスを受け持つわけじゃなし。 高杉が眼帯の紐を耳に掛けるのを、何とはなしに眺めながら灰皿で煙草を揉み消す。 「薬はやらねェ。分かったらさっさと教室戻れ。俺ァこれから寝るんだよ」 口から出る言葉は殆ど惰性に近かった。瞬きする毎に瞼が重たくなっていく気がしてならない。とてつもなく眠いのだ。煙草を吸ってないと途端に意識が睡眠を欲してくるようで、耐え切れず欠伸が洩れた。 上体を支えているのも怠くて、背凭れのついた回転椅子に深く腰を下ろし足を組む。眠気に浸されつつあるその動作は、或いは悠然としたものに見えたろう。 「てめェそれでも先公かよ。…っと、ああ、そうか。夜遊びしてちゃ寝れねェよなァ?」 その詳細より土方の反応に興味があるという笑みで、高杉は丸椅子の縁に両手を突いて身を乗り出してくる。 ったく、可愛げない餓鬼だ。 背中を丸めて下から覗き込むように見上げてくる、ぬめりのある眼。その双眸を土方は見下ろす。 「お前に云われる筋合いはねェな、教室にいるよりこっちで寝てる時間のほうが長い不良生徒。ついでに、…知ったふうな口を利くな」 「否定はしねぇんだ。やらしい」 ククッ、と喉に引っ掛かるような笑い声は、土方の冷淡な視線にも怯む様子を見せない。 今朝はやけに絡んでくる高杉に、土方は訝しげに片眼を眇めた。伸びてきて邪魔な前髪を払い、欠伸で涙の滲んだ目尻を指先で擦る。 だから、ふと気配が動いて、その手首を掴まれても眠くて大した反応を返せなかった。 唯、黒眼だけを上に向ける。立ち上がられると目線は高杉のほうが高かった。圧し掛かる、高杉の年齢に合わぬ妙な威圧感が不愉快で、土方は眉根を寄せる。 「こんなのつけてる男がセンセーのシュミだとは知らなかったよ」 「は、ぁ?」 顔を近づけて、眼を見据えてくる高杉の囁きに、素っ頓狂な声を思わず上げた。 つける、って何を。 何のことだ。 わからない。 だのに、何故だかギクリと心臓が跳ねた。 思考にちらつく、死んだ魚と同じ濁った眼の男。 何で。 「さっきから煙草のにおいに混じってする厭味なにおい。気付かねぇほど馴染んでるんだな。コロンなんざ、センセーはつけねーだろ?」 「…っ!」 今度こそ鼓動が激しくなって、同時に怒気が膨れ上がった。 目の前の生徒に対してではない。 あンの腐れ銀髪色魔銀時ィ…!! 内心で思いつく限りの罵倒の言葉を並べ立てて、今すぐあの男を切り刻んでやりたい気分になって手が震える。 ―――あーあ、来週まで逢えないなんて寂しいなァ。 普段の言動と外見には大凡似つかわしくない、しおらしい言葉を不審に思ってはいたのだ。だが、見事にしてやられた! 土方の怒りは沸点こそ低いものの、その最高値を何日も持続させるほど執念深くはない。そこまで見越して、こんなことをしやがるのだ。 道理でずっとあの男のことが頭から離れないわけだ。いつも奴からするにおいで、無意識に連想していたのか。 それほどに深く身の内に浸透してきている男と、それ以上にさせてしまっている自分に対して腹が立って苛ついて舌打ちする。 「…口止め料は何なら満足だ」 動物が唸るのに似た低い、地を這うような声。ギリ、と歯ぎしりする音が聞こえそうなほどに強く食い縛った口は引き結ばれている。不本意に耐える土方は見物だった。 勝ち誇ったような、嘲笑のような感情に顔を歪めて高杉は出入口の扉に向かう。 「『不在』の札と鍵は掛けてやるよ」 それはまた、涙が出そうなほど親切で分かりやすいことで。 はぁ、と心底面倒で、けれど仕方無いといった息を土方は吐き出した。顎を仰け反らせて背後の窓から見える空に眼を遣る。 冬の冷たく清々しい青空は高く、少しの白い雲とそれより尚白い太陽が映えている。 こんなに天気がイイ日に俺は、午前中からふしだらな行為に耽るわけか。 ぐっと手を伸ばして、日差しに色褪せたカーテンを引いた。 それは清冽な太陽に後ろめたさを感じたなどという感傷的な理由じゃない。中庭を挟んで向かいに校舎があるから用心の為だ。 それでさえも、見られると恥ずかしいなんていっぱしの理性が働いたというよりは、こんな下らないことで職を失うわけにはいかないからであったが。 道徳心。倫理感。 そんなのはきっと何処かに取り落としてきた。 腕を動かすと微かに漂うコロンのにおい。 それに呼び覚まされる男の影。 罪悪感はない。 何故ならこの事態を招いたのは、アイツが原因に他ならないのだから。 それよりも、俺が躰を壊しそうで心配だ。 |