いつから気付いていたのかなんて、きっと最初から知っていた。


「センセー、寝かせろ」

 ガラリと、他の教室とは違ってやけにすんなり開く扉を横に引き、高杉は開口いちばんに云った。
 入って正面には、怪我の手当ての為の台や道具や何やらが衝立の前に置いてある。その衝立の向こうで、ひとの動く気配がした。
 そこにはこの部屋――保健室の主の机や書類棚が据えてある。主というのは、養護教諭である土方のことだ。どうやら彼以外、今は誰もいないらしい。だから机に向かって仕事をしていたんだろう。
 声だけでやって来たのが高杉だと気付いていた土方が、うんざりしたような呆れたような顔を覗かせた。

「せめて仮病くらい使え」
「無駄なことはしねェ主義なんだよ」

 それにそんな陳腐なもんは、どうせ見抜くクセに。
 仮病を使ってサボろうとした奴に薬を渡し、「コレ飲みゃァ、どんな病気でも吹っ飛ぶぞ。何しろ一遍死ぬほど、とんでもなく苦ェからな」と冷淡な表情を動かさずに云って追い返したというのは誰もが知る学校の噂だ。
 高杉の言外に含んだ意味までしっかり読み取った土方は面倒そうに、勝手に使えとでも云うふうに目線を奥のベッドに遣った。

「名簿にはもっとマシな理由書いとけよ」

 入り口を入って直ぐ横にある低めの棚の上の利用者名簿を指して机のほうに戻っていく。安っぽいスチール椅子に腰を降ろしたときの軋んだ小さな音を耳の端に聞きながら、高杉は鉛筆で名簿に学年・クラスと氏名、そして理由欄には『微熱』と書き込んだ。
 それから部屋の奥まった一角に向かう。天井のレールに通して垂れ下がるだけの薄い布の仕切りをザッと開いて、いちばん手前のベッド横に鞄を放り出した。教科書なんて一冊も入ってないから軽い音しかしない。
 一眠りして起きたらそのまま帰るつもりだった。午前中は珍しく授業に出ていたから、午後はもう教室に戻る気など更々ない。それでも、高杉の学校に対する態度はまだマシになったほうだ。だって、一応は学校にいるのだから。
 以前なら朝から来ないか昼に来るか昼に帰るかのいずれかしかなかった。出席日数さえ足りればいい。勉強しなくても教室の机では寝ることができる。これでも成績は悪くない。保健室でサボるくらいなら学校にいる意味などないから帰る、というのが高杉の考え方だったのだ。
 それが変わったのはいつだっただろうか。
 思い出せないが、少なくとも高杉がこうして保健室の常連になったのは土方が原因だった。きっかけは、やはり思い出せない。
 ベッドカバーを引き剥がして中に潜り込む。硬い。保健室のベッドは、校長室のソファのほうがマシなんじゃねーのかと思うくらい寝心地が悪かった。
 病人を静かに寝かせる為の仕切りのカーテンは開け放してある。ここからは、机に向かう土方の姿を見ることができた。
 高杉ほどではないが長めの、黒い前髪の下で眼を伏せて、何か書き物をしている。頬杖を突いている左手が邪魔だ。ベッドに寝そべってかなり低い視点から見上げているから、その腕で横顔がちゃんと見えない。
 時間は授業中だから校内は酷く静かだった。時計の秒針の音まで聞こえる。空調も効いていて、外や廊下や、教室と比べても過ごしやすいことこの上ない。
 イイ環境。イイ部屋。
 けれどそれだけじゃ高杉が此処にいる理由にはならなかった。
 仕事に集中している男を見遣る。彼は眉間に寄った皺を指で押さえて消そうとしていた。そんなことをしたってその皺の原因が消えるわけじゃないだろうに。
 ―――この男は、男に躰を委ねて夜を過ごしているのではないかと、何処か確信めいた直感を抱いたのは果たしていつだったか。
 そんなことを考えるのはバカバカしくて、ハッ、とくちびるの端に嘲笑を浮かべる。


「先生ー! 膝から出血多量〜、治してくれよ!!」

 遠くから慌ただしい足音が聞こえてきたと思ったら、扉を思いっきり開く音と大声が静寂を無遠慮に突き破った。
 土方と彼の机が置いてあるスペースが見える代わりにベッドからは入り口が見えないのだが、多分体育でヘマをやらかした奴だろうと予想する。
 腹の底で何かがごぽりと煮えた。
 ドロドロした、苛立ちとも怒りともつかない渾然とした不可解な感情。ムカムカする。
 入ってくるな。
 ペンを置いた土方が椅子から立ち上がって、高杉の使っているベッドの足元を速足に通り過ぎた。前を留めない白衣の裾がひらりと翻る。躰の線に沿わないその白い布は、内包する体躯のしなやかな細さをより一層連想させるだけのようだ。
 片眼にはいつも眼帯を着けているが、その分を補って尚余りある程度には高杉は視力が良い。枕に顔半分をうずめて、横切った土方を見詰めて。彼の襟足の、髪で見えるか否かという際どい箇所に紅い痕を見付けた。
 驚いた。その明らかな情交の痕跡に。
 自分だって女を抱いたことはあるが、夏場にも紫外線から死守している女の真白い肌に吸い付きたいと思ったことなど一度もなかったからだ。そして、そんなものをつけさせたこともない。
 だからその、鬱血痕が、どうしてあんなに見つけた者に対して存在を主張しているように思えるのか分からなかった。たかがキスマークだろう。それで相手を手に入れた証になるわけでもないだろう。
 なのに。それだのに。
 嗚呼、ムカツク。
 収まらない衝動。
 そんな印をつけられているのに、何でもない顔をしているあの男をグチャグチャにしてやりたい。
 はっきりと明確になる欲望のカタチ。
 そうか。そういうことか。
 唐突に理解して、ベッドの上で躰を丸めて堪え切れず低く笑った。
 その噛み締めるような笑い声は、誰にも聞こえなかっただろう。向こうからは、土方と生徒の喋っている声がする。

「アア?! 何が出血多量だ大したことねェじゃねーか! 唾でも付けとけ」
「うわ酷ェよ、先生。絆創膏でいいからくれよー」
「敬語」
「土方先生絆創膏ください!」
「…仕方ねーな。消毒してやるからそこ座れ」

 そんな会話は高杉の耳には入らなかった。笑いが止まらない。おかしくって仕方ない。肺が引き攣るようだった。威勢が良い礼の声と、扉を開閉する音が聞こえたときになって、漸く普通に呼吸が出来るようになる。
 むくり、と高杉は上体を起こしてずれた眼帯を直す。土方が意外そうにこちらを見たので眼が合った。

「……何だよ」
「いや、てっきりもう寝てると思ってたんでな」
「煩くて眼ェ覚めちまったよ」

 当て付けがましく吐き棄ててやる。
 ベッドから足を下ろし、適当に脱いだままにしてあった上履きを履いて踵を踏んだ。今日はもう帰ろう。鞄を持ち上げる。
 ふと、土方が不思議そうな顔をしているのに気付いた。その薄いくちびるの端が、何処かからかうように持ち上がって言葉を発する。

「その割には愉しそうじゃねェか?」

 ふぅん、案外敏いな。

「あァ、愉しいぜ?」

 何しろ今まで霞みがかっていた目的がやっと見えてきたんだから。
 愉しくとも何ともなかった生活にこれは鮮烈な色をつけるだろう。
 刺激的で魅力的だ。考えるだにゾクゾクする。


 さァ、めくるめく非日常はすぐそこだ。





本気。だけどそれはゲーム感覚。

04.Nov




* Back * Next *