何があったのだろう。 白々しく思い、高杉はくちびるを歪める。 そしてその口元を隠すように土方のコーヒーカップを無断で掴んで一口啜った。 此方を見向きもせず仕事に専念している背中から発散されている、今にも爆発して当り散らしそうな雰囲気が、今はこんなにも快い。 木曜日、日課のように保健室を訪れた高杉は至極愉快な気分に見舞われた。 土方の様子・言動の総てが、高杉の企みの成功を物語っていたからだ。 「…勝手に飲んでんじゃねーよ」 「そんなケチくせーこと云うなって。淹れ直しときゃいーんだろ?」 ちらりと向けられた剣呑な視線にも、高杉は耐え切れず笑みを滲ませた声で答える。この触れれば切れるようなピリピリした空気で充たされた保健室には、校医である土方と殆ど保健室登校の状態になっている高杉のふたりしかいなかった。朝から高杉が知る限りで怪我人と具合の悪そうな生徒が三人ほど保健室の扉を開いたが、みな例外なく黙って引き返している。そりゃそうだ。こんな空間にいたら胃が竦んで治るものも治らなくなるというものであった。 何かあったのだ。 今度は確信を持ってはっきりとそう思う。 丸椅子をより土方の近くまで引き摺っていき、腰を下ろして高杉は眼帯で隠されていないほうの眼を愉しげに細めた。 「カレシと喧嘩でもした?」 「アレはンなもんじゃねェ」 へぇ。てっきりそうなのだと思っていたのに、少しばかり意外な返答に高杉は思わず感嘆のような息を洩らした。しかし、確かに納得でもある。そうでもなければこの男があんな簡単に躰を自分に明け渡したりなどしなかっただろう、と。 ギ、と回転椅子が軋んだ音を立て、土方が漸く高杉のほうを向いた。元からの目付きの悪さに加えて不機嫌に眇められた双眸は、凶悪以外の言葉では表現できない。そうして短くなっていた口元を煙草を抜き取ると、何処にでもある安っぽいアルミの灰皿にきつく押し付けた。薄いくちびるから吐かれる声は地を這うほどに低い。 「つか、元はと云えば――」 「元はと云えば、コロン匂わせてたのが悪ィって?」 高杉がすかさず揚げ足を取れば土方は、ぐ、と押し黙った。その奥歯を噛み締め、眉根に力をこめて悔しさに耐える表情を、高杉はとてもイイと思う。この男を想うモヤモヤが霧散して胸が空いた。 あの匂いに気付かず高杉に手を出す切っ掛けを与えたのは土方であるし、しかしそもそもそれを付けたのは高杉の見知らぬ土方の情人で、けれどその男がそんな真似に打って出ることになったのは十中八九高杉の行動が原因であろう。そのようにして現状の責任は土方の知らぬところまで入り組んでいく。ある意味で、キリがないのだ。追及すべき責任主体はぐるぐると巡るばかりで何処までいっても尾が掴めず、下手をすれば自分に回ってくるとあっては土方も高杉を強く責めることが出来ない。 そこまで分かってしまうからこそ、尚更悔しいに違いない。 高杉がニタニタと愉しそうに笑んでいるのを射殺すように睨み付けた土方は、しかし唐突にふっと視線を逸らした。手の中にあったマグカップを乱暴に持っていかれる。土方はコーヒーの残りを一気に飲み干すと、カップだけを高杉に突き返した。 コーヒーを淹れ直すという高杉の言葉をちゃんと耳に留めて憶えていたらしい。律儀な性格だ。机に頬杖を突いて、紫煙でも吐くように重い息を漏らす白衣の男に内心で損な性格だな、と嘲るように云ってやり、高杉は腰を上げた。低い棚の上に置いてある壜から粉末のインスタントコーヒーを多めに放り込んでポットの湯を注ぐ。土方は苛々しているときほど胃を痛めそうなくらい濃いコーヒーが飲みたくなるらしい。しかもブラックで。そして喫煙の量が増えて、寒さも厳しいこの季節に窓を開ける筈もなく部屋は真白に曇るのだ。 こんな学校の保健室が、あっていいものかとも思うが高杉にはどうでもいいことである。この男はこういうことにかけては要領よく立ち回る術を心得ているから、処分されるようなことにもならないだろう。 狡くて、汚い大人だ。 しかし、そんないけ好かない鉄面皮を剥ぎ、素の表情に触ってやる瞬間が高杉は愉しくて仕方なかった。 スプーンで充分に掻き回したコーヒーを土方に渡してから高杉は元の椅子に腰掛ける。そして不機嫌に顰められた土方の顔を見詰め、ゆっくりと口元を弧に歪めた。仏頂面のままで、コーヒーを一口飲んだ土方はまた煙草に火をつける。医者の不養生、という言葉も強ち間違ってはいないようだ。 余程荒れているらしい今日の土方は、随分と開けっ広げだった。苛立ちから吐き出さずにはいられないといった風に、誤魔化しのない言葉が問い掛けに対して返ってくる。 「そうだ。なァ、」 「何だ」 「さっきの話。カレシじゃねーんだったらセフレとか?」 「…まァ、そんなもんだな。お互い、次ができるまでの一時凌ぎだよ」 本心からそんなことを云う、この男は莫迦かと思った。 高杉にも分かるほど執着を土方に注いでいるヤツが、遊びなワケないだろう。 だがしかし、そんなのは知ったことではなかった。寧ろこちらには付け入る隙が多くて好都合だ。 「なら今、センセーに好きなヤツはいねェんだな」 「ンなこと訊いてどうすんだ」 色素の薄い灰色の眼が、怪訝な色を映して立ち上がった高杉を見る。その口に咥えられていた煙草を攫うと、立ち昇る紫煙が暖房の風にゆら、と揺らめいた。上向いてやるつもりもないとばかりに視線だけを上げる土方に、高杉は奪った煙草を吸って笑う。 本気なのだと、伝えてやったらこの男はどんな顔で何と言葉を返すだろうか。 「俺にオチる可能性もあるってことだろ?」 「…どうだろうな」 声音の一片も変えず、吐かれた言葉は唯それだけだった。 大人は狡い。 "monopilize" 了 |