今日の夕食は水菜のサラダに茄子とベーコンのトマトソースパスタ、それとポテトコロッケだった。近所の美味しいコロッケ屋で買ってきたコロッケ以外は銀時のお手製である。
 限度知らずのマヨラーである土方は毎回何にでも恐ろしい量のマヨネーズをかけるから、その被害に巻き込まれない為にサラダは予め皿に取り分けておく。そしてマヨネーズはそれにかけるので満足してもらって、折角作ったトマトソースの味を塗り潰される事態だけは何とか避けようという算段だった。最近、味付けを変えられることを嘆く世の奥さま方の気持ちが分かるようになってきた気がする。憤るか哀しむかのどっちかだ、コレは。
 それにしても、と銀時は黙々と夕食を口に運んでいる土方の顔を窺った。口数が少なく仏頂面なのはいつものことだが、今日はそれに輪をかけて不機嫌というか密かに怒っているような空気を感じる。しかし銀時にはその理由がさっぱり推し量れなかった。
 パスタやサラダはもう半分近く食べているし、この店のコロッケは土方も好きだと云っていた。だから何かが不味いからとか、そういうのが原因ではないのだろうとは思う。もっと些細なことか、或いは深刻なことか。短気な土方は直ぐにカッカして怒鳴り散らすクセに、肝心な処では静かに静かに怒りを湛えていたりするから始末に負えなかった。言葉を換えれば厭きない、ということでもあるが。

 土方はパスタも箸で食べるから、音という音を殆ど立てない。しかも時折起こる食器の音が異様に大きく聞こえる、この居心地が悪過ぎる沈黙を彼はどうとも思っていないようだった。もしかすると、一人で食事を取っているのと変わらない気持ちでいるのかもしれない。机を挟んで正面に座っている銀時を極力視界に入れず、無視しようとしている節すらあった。
 自分が何かしたのだろうか。けれど憶えがない。彼を怒らせた憶えなど、全然全く思い当たらない。しかし幾ら記憶になくても、土方の機嫌が頗る悪いという現実には変わりがないのだった。
 銀時は土方が食べ終えたのを見計らい、そっと声を掛けた。

「なァ、今日は何か機嫌悪くねぇ?」
「………」
「…もしもーし?」
「………」
「ナニ、無視? 無視ですかコノヤロー」

 黙ったまま煙草とライターを掴んで土方が立ち上がる。そして横を通り過ぎようとした土方の手首を銀時は捕らえた。瞬時に振り払おうと動く彼の腕を離すまいと力を込める。
 土方は眼の下に不快げな皺を刻み、椅子に腰掛けている銀時を見下ろした。その表情を見て、不機嫌というよりやはり怒っているのだと銀時は確信する。

「………離せ」
「怒ってるワケ、教えてくれたらな」

 云うと、掴んでいた手を到頭引き剥がされた。ふいっと顔を背けて食後の一服に行く――彼は何故かこの家に己の煙草のにおいがつくことを嫌い、いつも開けた窓際か換気扇の下かベランダで吸っている――土方を追って、銀時も椅子を離れる。
 後をついてくる気配に土方は苛々した。誰のせいで最低な気分に浸ってると思ってんだ畜生、と内心で毒突く。怒鳴るほどの激しさではなかったが、先日の怒りが熾き火のようにちらちらと熱を残していた。仄かに漂う銀時のにおいがまたその感情を煽る。
 ―――気付かねぇほど馴染んでるんだな。
 そんなワケあるか、あのクソ餓鬼め。
 生徒に弱みを握られて手を出されたなど土方には屈辱でしかなかった。そしてその原因が、目の前にいるこの男がとった意図の分からない行動にあるのだとすれば―――。

「顔も見たくねぇって思っても不思議じゃねーだろ。てめェのせいで作らなくてイイ借りを躰で払わされたんだからな」

 視線は逸らしたまま煙草を咥えようと開いた口から、刺々しさを孕んだ言葉は自然と吹き零れた。カラリ、と隙間を開けた窓から夜風が吹き込む。

「……それって」

 風の冷たさに気をとられた一瞬のときに、銀時の声はするりと耳に入り込んだ。
 無機質なその声は不気味に平坦で、ぞっとする薄ら寒さに土方の動きが凍る。手の中のライターをぎゅっと握り締めた。聞こえたのは何でもない言葉なのに、どうして怯む必要があるんだと土方は何かを振り払うように声を絞り出した。

「ナニ怒ってんだ」

 煙草に火を点けられぬままに半身だけ振り向き、銀時を見据える。
 瞳孔が開いて黒々とした眼に睨み付けられて、銀時は胃の底がムカムカする感覚を味わわされていた。そんな胃もたれするようなものは食べていない筈なのだが。いやそういう問題ではないか。これは、負の感情からくるものだ。コイツに会うまでは捕われたことなどなかった、のらりくらりと歩いてきた足を地面に貼り付けて動きを封じる粘着質なしがらみ。
 ああ、厭だな。
 土方と居るといつもそう思う。際限なく搦め捕られてゆくイメージ。余裕という名の怠惰は根こそぎ奪われて。こんな、荒ぶる感情に左右されるなんて自分らしくない。

「―――自惚れんなよ、怒ってなんかねーし」

 嘘だ。業腹だった。
 土方の言葉で、自分の行動が裏目に出たことを覚る。きっかけを作り、手段に使われたのだと銀時は歯噛みした。あれの意味と意図に気付けば諦めるのではないかという読みは甘かった。しくじった。一筋縄でいきそうにないことは分かっていた筈なのに。
 …違う。いちばんの計算違いはこの男がそれを許容し、銀時に対して隠そうともしていないということだった。後ろめたさはなく、不実でも裏切りでもないと思われているのだ。

「何でテメーが怒ってたら俺が自惚れんだよ」

 土方の表情に訝しげな色が混ざり、不本意そうに云い返される。
 しまった。墓穴だったか。常のやる気なさげな顔は保っていたが銀時の胸中は穏やかでなかった。もうホント、どうしようか。この苛立ちを。
 銀時はゆるりと持ち上げた指先で無防備に薄く開いたくちびるをなぞり、そこから煙草を抜き取った。自然とそれの行方を追う土方の視線を振り切るように投げ棄てる。すると向けられた非難を黙殺し、土方の躰を閉めた窓の桟に突いた両手で挟み込んだ。
 途切れる夜風。寒さは和らいだ筈であるのにひく、と強張る彼の躰。その眸に俄かに過ぎる警戒心。もう遅い。顔を近寄せてカタチの良い耳殻を食んだ。低く、囁く。

「なァ、もうメシも食い終わったんだし、ヤろうぜ。食後の運動」
「吐くぞ」
「じゃ、便所でやる? それなら吐きそうになっても平気だろ」

 俺、今日は頭に血ィ昇ってっから手加減できねぇかも。
 自分でも意外なほど酷薄な声が溢れ、内心で驚いた銀時以上に衝撃を受けて土方は眼を見開いた。皮肉げに口端を歪めた、虫唾の走る笑みをかんばせに貼り付ける銀時に突如として怒りが膨れ上がるのを感じる。
 何だ。何だコイツ。怒るのは俺だろう。要らぬ厄介の原因を振り撒かれて、迷惑極まりない。なのに何で俺が怒られなきゃなんねぇ。納得いかない。納得できない。
 己の躰を圧迫するように圧し掛かってくる銀時の肩を乱暴に押し退けて土方は語調を荒げた。

「ンだよテメーのせいだろ、俺がアイツにヤらせなきゃなんねぇことになったのは!」
「だったら何で許したんだよ! オメーだったらアレを誤魔化すくれぇワケねーだろ!!」
「問題摩り替えんな! そもそもあんなことしなけりゃ――」
「俺だって好きでやったんじゃねーよ!!」

 言葉を遮った銀時の剣幕に呑まれ、土方は口を噤んだ。銀時は肩を押さえる土方の手を剥がして痛いほど握り締めた。冷たい手だ。この手が熱を帯びる淫らさを、己以外の誰かも知っているのだと思うと堪らなかった。様々な感情がグチャグチャになってもう何がなんだか分からない。
 あんなこすい真似をせずとも、堂々と言葉にして云えたならどんなにイイかと思った。
 何でそんな簡単に躰を開くのだと詰る権利すら銀時の手にはなく。そもそも義理立てなんてありゃしない。自分たちはそんな関係なのだと、苦い現実を突きつけられる。
 けど、なァこんなのってアリか。ナシだって云えよ。俺がいるのに、何が不満だというのだ。


「ああ、もしかして……俺よりそいつのほうが好きなの?」


 勝手に喉を突いて出た言葉に愕然とした。その惨めさ滑稽さに銀時は虚ろに嗤う。

「っトチ狂ってんじゃねーよ!」

 土方の眼に映った銀時のその笑みは、酷く濁ったものだった。土方にとってはそれがどんな感情に由来していようと知ったことではなかったが、深く介入される心地がしてカッとする。思考より早く手が振りかぶられ。
 バシン、と乾いた高音はいやに大きく響いた。
 音の割に、平手でぶたれた頬は痛くなかった。唯、然して痛くはなくても、鈍い激情を醒まさせるのには充分で。銀時は呆然と土方を見詰める。甘えを否定する厳しい眼差しで見返される。これ以上下らないことを云うなという眼をして、土方は腕の囲いから擦り抜けていった。

「頭冷やせ。俺ァ帰る」
「…男ならグーじゃねぇの?」

 いつもの茫洋とした覇気のない眼で口角を僅かだけ斜めに吊り上げる銀時を、土方は肩越しに振り返る。そして銀時の頬を打った手をひらひらと振った。手加減してやったんだとでも云いたげに。

「こっちのが、痛ェことだってあんだろ」

 ソファに無造作に放り出してあったコートを羽織る背中を銀時は引き止めることもできない。頬に手を当てると今更のようにジンと疼いた。しかし口内を切ったわけでもなく、冷やさずとも放っておけば赤みも直ぐ引くだろう。
 まるで、本気で相手にされてないみたいだとぼんやり思う。そんな価値もないと見限られているような、そんな推察は案外堪えた。
 玄関の閉まる音が聞こえ、取り残された部屋で銀時は独りごちる。


「ああ。最高に痛いね」





どうすればお前に狂わされたこの頭は冷える。

05.Jan




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