十四郎がバイトから帰ってくると、弟が満面の笑みで玄関に立っていた。

「おかえり、にーちゃ!」
「……ただいま」

 いつもならば腰に突撃せんばかりの勢いで飛びついてくるので反射的に身構えた十四郎は、にんまりと笑ったまま両手を後ろにやったお澄ましポーズで佇んでいる弟に、アレ?と内心首を傾げつつ応える。しかし少し待っても弟の銀時が動く気配がなかったので、後ろに転ばないよう重心を落とした姿勢を解除して十四郎は靴を脱ぐと家に上がった。
 そのまま居間に向かおうとする十四郎の前に、銀時が素早く回りこんでくる。両手は相変わらず背中に回ったままだ。何かを隠しているのだろうと予想がついたが、弟に関しては特に鋭く働く脳内の危険信号が黄色を灯していたので、十四郎は何も云わず銀時の銀色天然パーマをぐしゃぐしゃと掻き回して更に横を擦り抜けた。
 世の中には、逃げるが勝ちという格言がある。何でもかんでも真正面からぶつかるだけが勝利の条件ではないのだ。自分とてもう大人。ときには大人の対応でやんわりとスルーすることも必要だと思う。大いに思う。なのでこれは唯逃げているわけではなく戦略なのだ、と自分に云い聞かせて十四郎はリビングに通じる扉のノブを握る。
 握ったが、回すことはできなかった。

「…………」

 振り返ると、十四郎の上着の裾を片手で握り締めて引っ張りながら上目遣いに見上げてくる弟がいる。その眼が、やたらと何かを訴えかけてきているような気がしてならなかった。
 小さな弟の手を振り払うこともできず、十四郎はぎこちない笑みを口許に浮かべる。

「な、何だ? 銀時?」
「あのね、にーちゃにね、おかえしすゆの」
「お返し?」
「うんっ、ばりぇんちゃいんのおかえし!」
「バレンタインな。そうか、ありが…………は?」

 バレンタインのお返しって、何だ。
 危うく礼を云いそうになった口から訝しげな声を吐いて、十四郎は眉根を寄せた。
 今から一ヶ月前の行事であるバレンタインデイは、一般的に女性が意中のひとや恋人にチョコレートを贈る日である。十四郎もその日はバイト先で義理チョコを貰い、家では母から形ばかりのバレンタインチョコを渡された。形ばかり、と表現する理由は十四郎に渡されたチョコを食べるのが結局は母であるからだ。十四郎は甘い菓子があまり好きではない。だからチョコは一度十四郎の手に渡された後すぐ母にリリースされていった。
 その日のことを思い返しつつ、何故自分は銀時にお返しをされそうになっているのかを必死に考える。今日はホワイトデイで、バレンタインの返礼をする日であることには気付いたがそれだけでは現状の理由にはならなかった。そもそもバレンタインチョコなど渡した憶えも買った憶えもない。

「銀時、すまねぇが何か勘違いしてねぇか…?」
「んーん。ちてないよ。だって、にーちゃくれたでしょ? ―――おれに、チョコ」

 ぷにぷにしたやわらかそうな幼児の頬に、凡そ不釣合いなシニカルな笑みが浮かぶ。
 その銀時の顔を見た瞬間、ひとつの記憶が甦ると共に脳内の危険信号が赤に変わったのだった。





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08.03.14











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