それは一ヶ月前のこと。
 大学の後期試験が終わった十四郎の日課は、幼稚園に通う弟の銀時の送り迎えだった。
 朝はいつの間にか布団にもぐりこんでいる銀時に起こされ、昼過ぎになると母に促されて幼稚園まで徒歩で迎えに行く。銀時は母が送り迎えをするときは自転車に乗るクセに、十四郎のときは頑として乗車を拒否するのだった。危うい運転をするわけでもないのに理不尽な話だと思うが、聞き入れてくれないものは仕方ないので最初から歩いていくことにしている。
 長期休暇といえば学生身分としては遊び時でありバイトでの稼ぎ時だというのに、この送り迎えの為に――十四郎が休みなのに行かなければ銀時は泣き叫ぶのである――十四郎は朝の短時間か夕方から深夜のバイトしか入れることができなかった。しかもそれすらも毎日入れようとすれば夜一緒に寝れないからと銀時がぐずる。一緒にも何も、そもそも別の部屋で眠っている筈なのだがと思うが、これももう追及する気にはならなかった。多大なる諦めを抱きつつ、十四郎はひたすら一緒にいたがる弟を宥めすかしてどうにか週に半分だけバイトをしている状態である。
 そしてそんな生活にさえ最早すっかり慣れきってしまった十四郎は、今日も午後になると銀時を迎えに出かけた。季節は真冬だが陽射しがあれば屋外もそこそこあたたかく感じられる。それでもコートのポケットに両手を突っ込んで体温を温存しながら十四郎は幼稚園に向かった。
 十分ほど歩いて辿り着くと、保護者のお母さま方の視線をちくちくと浴びながら門をくぐって銀時がいる教室を覗く。

「にーちゃ!!!」

 すると、弾丸のような速さで銀時が突っ込んできた。
 十四郎は腰に飛び付かれて転びそうになるのを堪え、弟のふわふわした銀髪を撫でてやる。ぱっと顔を上げた銀時が、死んだ魚と同じだといつも云われるまなこをきらめかせて口を開いた。

「にーちゃ、チョコかって!」
「は? チョコって、母さんが銀時にチョコのクッキー作って待ってるっつってたから我慢しろ」
「やーだー!」
「我が儘云うな。チョコ食ったら母さんのおやつが食えなくなんだろ」
「クッキーもたべゆけどチョコもいゆの! かってにーちゃ!」
「ダメだ。明日にしろ」
「あちたじゃめーなの!」

 銀時はよく駄々を捏ねる。しかし、このような内容でここまで粘られたことはなかったものだから兄の十四郎は弱りきった。
 しかし、ここで甘やかしてはいけないと心を鬼にして十四郎は銀時の手を掴む。

「帰るぞ」
「やだ。にーちゃがかってくれゆってゆうまでおれここからうごかねーもん」

 銀時はぐっと足を踏ん張ると、高い位置にある十四郎の眼を強い眼差しで見上げてくちびるを引き結んだ。無駄に強固な意志が、そこからは感じ取れる。
 互いに一歩も引かず暫し見詰め合ってから、十四郎は深く嘆息を吐いた。

「……食うのは明日にしろよ」
「うん! にーちゃだいしゅき!」
「あーはいはい。ありがとよ」

 もう一度溜息をついて、十四郎は銀時と手を繋ぎ幼稚園を出る。
 そして仕方なく途中で立ち寄ったコンビニで板チョコを購入し、銀時に手渡した。特に深い意味などなく。
 バレンタインの装飾は一ヶ月以上前から町を彩っていたものだから見慣れていて、今日がまさにその日であることを十四郎は家で母からチョコを渡されるまで失念していた。





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08.03.14











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