逢う日は水曜が多いらしい。

 誰がかというと校医である土方とその情人が、だ。普段は下校時刻を過ぎても自分の帰り支度が済んで保健室の鍵を閉める段階になるまで寝かせといてくれるのに、水曜はかなりの確率で下校時刻にもならない時間に叩き起こされ、追い出される。どれだけ文句を云おうがこの時ばかりは断固として聞き入れられなかった。とにかく帰れ、の一点張りだ。
 そんなにオトコとの時間が大事なのだろうか。追い払われてぴしゃりと閉ざされた扉を見ながら幾度となく高杉は内心で嗤った。土方にそっちの気があるということは高杉の中では最早疑いようのない事柄として認識されている。
 早い時間に仕事を切り上げるのだって最初は特に気にしていなかったが、それが尽く同じ曜日であると気付くと勘繰るのも当然だろう。本人はそれでも隠しているつもりなのだろうが偶に真新しい痕跡を見つけるのも、大概翌日の木曜だった。
 学校のない週末のことまでは分からないが、何ぞ取り決めでもあるのだろうか。まぁそんなもの、あったとしても自分には何ら関係無いのだが。唯、その奇妙なまでに乱れのない規則性はイイ気分がしなかった。
 階段の最後の数段を一気に飛び降りると鞄の中で空になった弁当箱が軽い音を立てる。今日はしっかり6時間目まで授業を受けていたら――大半は寝ていたが――、放課後に音楽会の練習なんていう下らないものに参加させられてしまった。高杉はとっとと帰ろうとしたのだが、徒党を組んだ女子というのは怖いもので半ば無理矢理合唱を強制された。高杉くんって良い声してるんだもん、と幾ら甲高い声で持て囃されてもかったるいだけでウンザリだ。機嫌は最悪といっていい。
 やっとその練習から解放された頃には結構な時間になっていた。今から保健室に行っても大して眠れないだろう。そう思うのに、高杉の足はいつも通りの場所へと向かっていた。
 しんと静まった空洞のような廊下に上履きの足音は反響もせず殆ど吸い込まれる。保健室の扉を開けると、部屋を斜めに突き抜ける夕暮れの光が眼帯で覆っていない片眼を射た。あたたかくも物寂しい夕陽を忙しく瞬きすることで視界に慣れさせる。

「センセー…、………」

 呼び掛けは、返事がないまま暖房の効いた空気に溶けて消えた。音がしないだけでなく気配まで静かな室内を訝しんで高杉はそっと足を踏み入れ、後ろ手に扉を閉ざした。いつもなら土方は面倒そうにしながらも一応奥から顔を見せるのだが、今日はそれがない。『不在』の札は吊り下げられていなかったし、鍵も掛かっていなかったからこの部屋にいる筈なのに、と高杉は首を傾げた。鞄の取っ手をギュッと掴み直し、意識せず音を忍ばせて衝立の奥を目指して歩を進める。そこには土方が普段仕事をしている机や書類棚が並べてあるのだ。
 そろり、と衝立で隔てられた場所を覗き、高杉は眉間に皺を刻んだ。

「寝てんのよかよ」

 零れ出た己の声は思いがけず低く、不満げだった。
 日当たりの良い位置に置かれた机に、突っ伏している土方の背中が見える。その体勢で寝ていないというほうが嘘だろう。仕事中に昼寝とはイイご身分だ。
 今度は足音を隠さずに大股で近付いていき、高杉は鞄を机の足元に下ろした。暖房の生暖かい風が頬にぶつかる。過ごしやすい室温に、窓からは午後の濃密な陽射し。確かに、さぞや眠りやすいことだろう。いつも授業をサボって此処で寝ている高杉自身がそれは保証できる。
 土方が腕を枕にして眠っている横には開いたままの分厚いハードカバーの本が伏せてあった。高杉も図書室で借りて読んだことのあるシリーズの最新刊だ。確か、何年振りかの新作で昨日発売されたばかりのものだったと思う。その割にはだいぶ読み進められているところを見ると、彼は殆ど徹夜で読み耽っていたのではないだろうか。

(今日も仕事サボって読んでて、だけど途中で眠気に負けて昼寝ってトコか)

 とんだ不良校医だ。
 どのくらいの時間眠っているのかは知らないが、頭の下敷きにされた腕は痺れて感覚がなくなっていることだろう。起きた後、あの何とも云えず不快な感覚に眉根を寄せる土方の顔が容易に予想できた。
 起きる気配のない、背中を丸める土方の真黒な後頭部を見下ろす。白衣やその下に着込んだ服の襟から伸びるなだらかな項は、その黒髪とは対照的に陶器のような白さだった。そして普通にしていれば見えない箇所に、ぽっと淡く咲く内出血。

(随分とご執心で)

 皮肉げにくちびるを歪め、高杉は声を殺して嘲った。
 薄らいでもう消えかけている紅のいろ。それは事故だったり無意味なものではなく、高杉の思うもので間違っちゃいないだろう。何でこんなものを残したがるのか高杉には理解できなかったのだが、最近は少し分かるような気もしてきた。
 何ものをも寄せ付けぬ雰囲気の土方を見ていると、苦痛にでも快楽にでもいい、とにかくその顔を歪ませてやりたくなる。それは男の性に潜む欲望だ。
 駆り立てられる衝動を思って高杉は眦を細めた。手を伸ばし、窓のカーテンを引く。ザッと小気味良い音が鳴り、室内が仄かに暗くなった。日に焼け黄ばんだカーテンを通して熟れた陽光は和らぎ、安っぽい白熱灯と混ざり合う。
 眠る男は身動ぎもしない。高杉が男の腰掛けているスチール椅子の背に手を突くと、古びた箇所が軋んだ悲鳴を上げる。
 そこを支えに、そっと身を屈めた。

「痛…ッ!」

 顔を寄せて曝された首筋に思い切り歯を立てると、土方の躰がビクッと震えた。痛みに驚いた声が洩れ、何事かと飛び起きようとする。だが高杉は肘と上体を使って背中から押さえ込み、それを阻んだ。土方の上に折り重なるような体勢で、ここぞとばかりに体重を掛けて圧し掛かってやる。

「センセーが居眠りしちゃいけないんじゃないですかァー?」

 厭味ったらしく、普段は使わない敬語で云うと、土方は自分の上に乗っかっているものが何なのか気付いたらしい。撥ね退けようとする抵抗を急に感じた。

「うっせェ、今日は暇だったんだよ。退け高杉!」

 多少くぐもった声で怒鳴られるのに素直に従って解放すると、土方は起き抜けの不機嫌そうな眼付きで高杉を睨んだ。それから首の後ろの痛みを感じたところに手を這わせ、訝しげに顔を顰める。

「イ…ッテェ。何しやがった」
「そこの柔らかそうなトコ狙ってギュっと」

 抓った、と親指と人差し指でジェスチャーする。後を引く痛みに血でも出てるんじゃないのかと思い、土方はそこをゴシゴシと手でさすった。その手のひらを見ると幸いに赤いものは付いていなかったが、出血するほどではないにしろ相当痛かった。何でこんな思いをせにゃならんのだと憤る程度には。
 しかしやりすぎだと怒っても高杉は堪えた様子もなく平然と「ああ、爪伸びてるからな」などとのたまう。いっそ清々しいほどあっけらかんとした高杉に、かえって土方は怒気を削がれてしまった。寝起きの一服を吸い、溜息のように紫煙を吐き出す。

「そんなんじゃ体育ンとき怪我すんぞ。爪切り貸してやるから切れ」

 そう云って土方は立ち上がると衝立を回り込んで行った。そこで救急箱を置いた台の側面に吊り下げた爪切りを掴み、後を付いてきた高杉に向けて放り投げた。
 受け取った高杉は生返事をして、丸椅子に腰を下ろす。土方はもう此方に眼もくれずマグカップにインスタントコーヒーを淹れていた。その背中から眼を離し、左手の親指からパチン・パチンと小さな刃で白い爪を切り取っていく。多少深爪になったがどうせまた伸びてくるのだから気にしない。
 爪切りを持ち替え、右手の爪から余分を落としながら高杉は声を掛けた。

「ベッド借りるぜ」
「構わねェが今日は早く閉めるぞ」

 パチン。
 やっぱり今日は会うのか。
 目線を上げず表情を動かさないまま思い、指先までぴんと手を開いてキレイに整った爪を眺める。足で引き寄せたゴミ箱に切った爪を棄てて、鞄を拾いに戻った。ついでにコーヒーを啜っている土方に不遜な態度で云い放つ。

「じゃ、起こせよ」

 土方の呆れた顔を了承と取り、高杉はカーテンを開け放していつものベッドの横に鞄を投げた。弁当箱の軽やかな音が鈍く鳴る。
 踵を履き潰した上履きを脱いでベッドに上がろうとしたところで、ふと思いついた。

「あぁ、そうだ。気を付けといた方がイイぜ」
「は? 何に」

 肩越しに振り向き、高杉は意味ありげにニタと笑う。


「取り敢えずは今晩会うヤツに、とか?」





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05.Jan




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